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 氏がこの言葉の用例を収集しているところでは、「上役などの意向を推し量る」ときに、「忖度」の語が使われるようになったのは最近のことで、見つかった使用例は、みな2000年代に入ってからだという。
 たとえば、

「『……。しかし、ほおかむりも無責任』。そんな首相の思いを忖度したような党税調。」(「朝日新聞」社説、2006年12月15日)

「会長の意向を忖度し、政府に批判的な報道がしにくくなるのではないか」(「朝日新聞」社説、2014年5月8日)

 上の文の「忖度」は、「推測」や「推察」へちゃんと置き換えられる使い方になっている。

 (権力批判志向が強い朝日新聞に対する、私の忖度であるが、ふつうこうした文脈では使わぬ「忖度」という言葉を、あえて使ったのは、「温かく、相手を思いやっちゃってさ」「気づかい、細やかなことで」みたいな、皮肉なニュアンスを漂わすためではなかろうか)

 ところが、飯間氏が次に引用する、政治家の発言(2017年のもの)にあっては、この言葉は別の意味合いへ変化している。

「良い忖度と悪い忖度がある」
「首相は、悪い忖度ではなかったとはっきりいうべき」

 「もともと忖度に良いも悪いもなかった。ただ人の心を推測するってことですから」と飯間氏は語る。

 上の政治家が言いたかったことは、やはり推測だけではなく「対処」をふくんでいて、不効率な岩盤規制をこわすような「良い」対処もあれば、権力者が個人的利益を得るような「悪い」対処もあるということであろう。

 私は新聞で見かける「忖度」が、いちばん気になっている。

 言葉の誤用なんて、誰だってやらかす。たとえ新聞の記者、論説委員といった言葉のプロでも、うっかり辞書から逸脱した言葉づかいを記してしまうことはあるだろうと思う。
 もともと、別の方面の能力が多分に要される仕事でもあるのだし(政治家もそうだ)。

 ただ――国語辞典が何よりの仕事道具で、言葉のまちがいを正す(それにより新聞のメンボクを守る!)ことでお金をもらっている校閲者が、そこから大きく逸脱した言葉づかいをずっと通し続けてはいけないだろう。

 これは朝日ではない、五大新聞の一つ(名は伏せる)だが、「首相周辺の意向として忖度が働いた」とか、「忖度の存否が論点になった」とか、先ほどの例以上に変なフレーズを、ここ半年くらいずっと紙面で目にするのだ。
 言葉は変化するものだが、校閲ばかりは現在の国語辞典が聖書と思う。

 新聞は、週刊誌を低く見がちだけれども、言葉づかいはむろんのこと細かい事実関係まで誤りを排す新潮の「神」校閲部が、TVドラマがらみで話題になっていたのは記憶に新しい。
 公器のエースたる大手新聞が、たくさんの読者に、言葉の誤用を長期啓蒙しては困ります。

数千年、平地を流れてきて、ことし滝のように

 紀元前に生まれた言葉「忖度」は、わが国へもかなり早く入ってきたそうだ。
 この言葉は、千年スケールの時間をこえ、ごく最近まで(もしかしたら今年2016年まで)、漢字どおりの正しい意味を維持してきたといえよう。

 というのは、ある言葉を別の意味合いで使う人はどんな時代もいるだろうが、これはもともと日常そんなにとびかう言葉でなく、先ほどの数年前の例のように大半は原義どおり使われ、だからこそ各辞書の説明も今のようになっていると思われるからである。

 しかし、今年を境にこの言葉は、「推測」「推察」とは異なる意味でしか、使われなくなるかもしれない。

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