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フォークギター/メッセージソングと共にアメリカから入ってきた第三のもの

 フォークギターやフォークソング文化が普及し、個人が自分の作った音楽をかんたんに披露できるようになった。それにのせて、広い意味の「自己メッセージ」を発することができるようにもなった。

 堰を切ったようにすぐれた女性アーティストが出現した、あの時代特有の要因(またはモチベーション)は、そうした変化ではないかということを考えてきた。

 もちろん、上の2点は男性アーティストにあっても起きたことだ。
 まずそちらで諸状況が確立され、それを足場として、一流女性シンガー・ソングライターの出現が可能になったのが、1970年代というタイミングだったのだろう。


 さて、このころ日本では、これらとはまったくタイプのちがう、ある運動が発生し、じわじわ広がっていったことを思い出す。

 フォークギター/メッセージソング文化に加え、1970年ごろ、アメリカから入ってきたもう一つ別のものがあった。

 ウーマン・リバレーション(女性解放)運動、いわゆるウーマンリブ運動である。日本での第1回のウーマンリブ大会が、1970年代初めに開かれている(第1回をどれと見るかは、諸説あるようだが)。

 私がそうした動きに、どのような印象をもったか。率直にいえば、「アメリカに影響された、恐いおばさんたちの出現」というものであった。
 テレビがその種の光景を、選って映したせいもあろうけど、何かすごく、リブの闘士たち(日・米とも)に「キーキー」感があったのである。好感は抱きませんでした。

 しかし、それはそれとして、たとえば温泉旅館などへ行き、男湯にくらべて女湯がロコツに小さく粗末な作りだったりするのを見ると、自分が母親より立派な風呂に分かれ入るさまに、気持ち悪い感じを抱くといったことはあった。こういうのは単純に、対称形に作ったらいいだろと思った。

 旅館の経営者世代と、当時子供だった私の世代に、すでにひとつ感覚の差があったのかもしれない。
 いま温泉宿を新築する経営層は、たとえば私の世代だと思うが、男女の湯に上のような差をつけたりすれば、評判を落とし女性客や家族客を失うとみな考えるだろう。


 山崎ハコは先述のように九州の出身である。男が強いお国柄。
 まあ、都市部でないことや、まさに時代もあったのだろうが、子供のころ、兄から「妹なんて奴隷みたいなもんだ」と言われて育ったそうである。
 また、学校の先生になりたいと思っていたが、女を大学にやる金などないといわれ、あきらめたという。

 (そういえば藤圭子も、勉強好きで成績も良かったが、経済事情から高校進学を断念したという。
 娘の宇多田ヒカルは、コロンビア大学という米国のすごい名門校へ合格したが、そこには自らの子供時代をふりかえっての、藤圭子の強い意志が一つあったと言われている。)

 「中・松」世代の女性シンガー・ソングライターは、むろん希少なのでチヤホヤされる面もあったろうが、あの時代特有の壁を感じる場面も、またあったのではないか。

 大貫妙子は、初期に「シュガー・ベイブ」というバンドにいたとき、自分は中学からずっとギターを弾いて音楽をしてきたのに、「女は、鍵盤楽器を担当するもんだよ」といわれ、やったことがないキーボードへ転向させられたことを、後々までインタビューで恨んでいた。
 たしかに当時は、女の子といえばピアノかエレクトーンの前に座っているというイメージが一般にあった。

ある解放

 「赤信号、みんなで渡ればこわくない」という、ビートたけしの悪名高い言葉がある。
 この言葉を逆にみれば、信号が赤になっている道を、人目があるなか一人で渡ることは、ビートたけしでさえこわいということだ。

 私は「中・松」世代にこの言葉を思い浮かべる。
 この人たちは、オンナが渡ることに基本的に赤信号が灯っていた所(先人がゼロではないにしても)を、大ぜいでガヤガヤ渡り、そのあとそこをもう常時「青」へ変えてしまったのであった。
 こうした大きな変化は、一人でなく「みんな」だったからもたらされたものではないか。

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