その象徴的なできごとの一つが、上に書いた1969年の東大安田講堂・攻防戦である。先ほどふれた藤圭子の「新宿の女」が世に流れたのと、これは同じ年。
私はこの事件については、講堂にたてこもった学生が上から機動隊に火炎びんを投げ、まわりが火の海みたいになっている映像を、テレビの報道で見た程度である。
しかし、同じ年の中ごろ、新宿で起きた「反戦フォークゲリラ事件」となると、これははるかに身近な印象がある。
私の「新宿のオトナ」
「反戦フォークゲリラ事件」は、反戦歌をうたう集団と、機動隊が衝突した事件で、場所は新宿西口広場。ここは、当時ちょくちょく、通り抜けることがある場所だった。
この事件のあと、この場所は外観はそのままながら、名称が「西口広場」から「西口通路」に変わったという(「通路」だと、法律上、集会を禁止できることから)。
こうした場所で人々が歌っていた、「機動隊ブルース」なるもの(機動隊の悪口)と、同じころ歌謡界でヒットした「伊勢佐木町ブルース」を耳にして、当時子供だった私は、「ブルース」という言葉の意味を測りかねていた(北極と赤道くらい違うものに、同じ名がつけられている気がした)。
これはずっと後に知った話だけれど、「機動隊ブルース」が、不適切な言葉をふくんでいるという理由で放送禁止になったのはまあ当然として、「伊勢佐木町ブルース」もまた、不適切な「吐息」をふくんでいるという理由で、NHK紅白歌合戦で「吐息」削除になったという。
むかしのNHKはすごく堅かったからなあ……。
当時新宿で見た、三つの映像が、私の頭のなかでセットになっている(そのせいで、みな今でもよく覚えている)。
新宿へは、映画を見るために行くことが多かった。たとえば、怪獣映画である。
親と一緒に行ったわけなのだが、こうした映画には必ず、戦闘機や戦車や大砲がたくさん出てきて、悪い怪獣へ華々しく砲弾をぶっぱなす。あるいは、新型兵器が派手な光線で怪獣を焼いたりする。
それに関して、映画館を出たあと親が、「映画の作り手はああいうシーンを、軍隊はかっこいいものだと子供に思わすために、わざと入れているんじゃないか」といったことをつぶやいたのである。
私はそのときも、当のシーンにそんな深い意味はないように感じたし、いまもその点は変わらない。
あれは、そうした防衛庁的陰謀ではなく(当時はまだ「庁」だった)、むしろ非常に子供っぽい、男のプリミティブな好みで入れられていると思う。
それはそれとして――。
新宿を知っている方はすぐわかると思うが、「笑っていいとも」で有名になった新宿アルタビルの近くに、新宿の東口と西口をつなぐ、人の通行のための非常に細い地上トンネルがある。
新宿の多系統の線路の下を通るので、けっこう長い。
1969年ごろ、このトンネルは照明が少なくてかなり暗く、壁や床も表面がいたんでぼろぼろな感じだった。
そして、そのトンネルの内部に、戦争で足を無くした人、顔の一部を失った人などがゴザをしき、自分の前にお金をもらう缶などを置いて、何人も座っていたのである。
当然みな、かなり高齢だ。
当時は地下の連絡路など発達しておらず、東口⇔西口を移動しようとすると、大きく遠回りしないかぎりこのトンネルへ向かうことになる。
細い通路なので、座っている人々の、鼻先といえるような所を通行者は歩いていく。
いま考えれば、それだからあの場所が選ばれたのだろうが……。
新宿の映画館は、みな東口のほうにある。
映画を見たあと、西口へ抜けるためそうした傷痍軍人の前を通ると、やはり私とて、戦闘機の派手な砲弾に「もっとやれ!」などと感じていた自らの心が、気になったりする。
あるいは、こちらは子供だというのに(子供でもやはり、日本的な、若輩という感覚はあるものだ)、のほほんと娯楽へ行って帰ろうとするそのありようの落差じたいが、歩いていて心に刺さってくる感じがする。
これは、実際にそうした人々の鼻先を歩いてみないと、実感されないことではあろう。
においのこもったトンネルのなか、足無く座ってアコーディオンを弾いている人があり、トンネル内に響くそのもの悲しい音を、いまも何となく覚えている。
アコーディオンやハーモニカが手にされていたのは、物乞いではなく、音楽への「対価」を置いてくれというプライドだったのだろうと、書いていていま気づいた。
そうして西口側へ抜けると、広場や、あるいは道わきに、ギターをかかえて反戦歌をうたっている人たちがいる。
日米安保条約が十年ごとに延長されることになっていて、1970年がその時期であるため、当時これを破棄させようと激しい運動が起きていたのだ。
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