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言葉を運ぶ船としての音楽

 プロによる伴奏や「エレキ」無しでも、個人が手軽に自己表現できるフォークギター/フォークソングというものの普及。
 これに加え、そうした物的/音楽的な要因とは180度ちがった「中・松」世代の横糸を、二つめに考えてみたい。
 
 次の三つの曲を貫く、あるものから、話を始めることにする。

 森田童子のデビュー・シングル、「さよなら ぼくの ともだち」は、友人の死をきっかけとして作られた曲だという。その人は、学生運動の活動家であったようだ。

 森田童子は、歌手を志望していて、その最初の曲のテーマとして友達の死を選んだのではなかった。
 1972年の夏に友達の死を知り、曲が生まれ、さらに、自身で歌う気は元々なかったことにたぶん関係していると思うが、顔をサングラスや髪で大きく覆って、それを自分で歌うことになったのである。

 歌い続けるモチベーションが、あまり長く維持されなかったのは、歌手/スターになりたい人では、そもそも全然なかったためではないか。

 1972年の「夏」と、くわしく書いてみたのにはわけがある(本名や経歴をふくめ、自分に関することをほとんど語らなかった森田童子が、この情報だけは細かに明示している)。

 先ほど、デビューアルバムに収められている「雨のクロール」という曲について書いた。
 夏の川辺で、仲良さげな男女が今日でお別れするという情景を描いた曲だ。

 片方だけが服を岸に脱ぎ、水のなかへ入っていく描写に、私は日常生活にあっての別離とは、また別のイメージも重なっているのかもと想像する(男/女の立場は逆になるけれど、それはこの人にあって一般的なことだ)。

 亡くなった「ともだち」は太宰好きだったいう言葉が、他の曲に出てくるし、森田童子のデビューアルバムのタイトルも、明らかに太宰治の遺作「グッド・バイ」から採られている。
 森田童子が描いてみせる映像を、何か単純な一つの解釈だけへ落とすことは、必ずしも正しくないだろう。

 アルバム中の、「雨のクロール」の一つ前の曲、「まぶしい夏」には、太宰の名とともに玉川上水という言葉が現れ、「水」のイメージは意図的につなげられているように感じる。
 太宰がここで亡くなったのも夏で(「桜桃忌」として俳句の季語にもなっている)、「まぶしい夏」を聴くと、森田童子は友達とこの場所を歩いたことがあったのだろうと思う。

 春における二人のやりとりから始まるこのアルバムは、ほとんどの曲が、実のところ「さよなら ぼくの ともだち」なのだ。

 この人らしく何ひとつ具体的な主張をしない反戦歌(と、爆撃音から推測されるもの)も入っているが、これも学生運動――当時の運動の背景のひとつは、泥沼化したベトナム戦争――に関わっていた友達への、一種の鎮魂歌であるのかもしれない。


 「さよなら ぼくの ともだち」を聞くと、いつも一緒に、頭のなかに浮かんでしまう曲がある。
 松任谷(荒井)由実が書き、この人の名を広く知らしめることになった名曲、「『いちご白書』をもう一度」である。

 これもまた、男女の別れ(その前の思い出)とともに、学生運動と、その挫折が描写されている曲だ。

 ちなみに「いちご白書」というのは、学生運動を扱ったアメリカ映画で、私は曲を聞いたあとでこの映画を見て、松任谷由実の曲ほど名作でないことに、ちょっとがっかりした。
 逆にいえば、曲のほうがそれほど輝いていたといえる。歌ったシンガーも含めて、と付け加えないといけない。

 二つの曲はいずれも、1975年の後半に発表されている。1969年の東大安田講堂事件などを経た、学生運動の退潮期である。

倒れた旅人たち

 さて、この1975年後半に出現した、もう一つ後世に残る名曲がある。中島みゆきの「時代」だ。
 私はラジオの深夜放送をよく聞いていたので、この曲が「世界歌謡祭」でグランプリを受賞したあたりの騒ぎはおぼえている。

 中島みゆきと松任谷由実は、初めてレコードを出した時期はけっこう離れているけれど、個人的には1975年後半にポーンと同時に上がった、二つの大きな花火みたいな印象がある(これらの花火が、まあ落ちてこないこと、落ちてこないこと)。

 中島みゆきの「時代」の歌詞には、恋人たちの別れといった言葉が、ふくまれてはいる。
 しかし、そうした出来事とはスケールのちがう、まわる「時代」がタイトルとされ、「今日は倒れた旅人たちも、生まれ変わって歩き出すよ」とくり返されるこの歌に、上の二つの曲と同じ背景を見ないことは難しい。

 まさに「時代」が、あるいは同一の挫折が、三つの曲を横に貫いているのだ。

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