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 そんなわけで私の頭のなかには、戦闘機や戦車の派手な映像と、トンネルにすわっていた軍服姿の傷痍軍人と、反戦歌をうたう人々が、当時の新宿の思い出として三つセットになっているのである。

 傷痍軍人は、新宿の別の場所や他の街でも、まだしばしば見かけた。
 そこには多様な事情があることを後に知ったが、「戦傷」というものを間近で生々しく見るできごとだったことに変わりはない。

 私は思うのだが――。

 当時の学生運動や反戦運動が、若者のハシカのようなものであったとか、学生がたまたま熱くなった季節を日本はもったというふうに、あっさり総括されるのを聞くことがある。

 たとえば、当時生まれていなかった世代の政治/社会学者が、あのころの主だった事件だけを文献や映像でながめやると、そうした印象になるのはわからなくもない。

 しかし、ああしたエネルギーの背景には、たとえば上記のような傷痍軍人の姿をふだん街で目にしているといった状況が、一つ大きくあったのではないか。

 「戦争を知らない子供たち」というフォークソングが1970年代に流行ったけれども、当時の若者&子供は戦争に関わることを、何ひとつ生々しく知らないわけではなかったのである。

 もちろん日米安保というものが、そうした犠牲者をふやす方向の何かなのか、むしろそれを抑制する何かなのかは、かんたんに結論づけられる事柄ではないのだが……。

時代の変化を示す、二つの顔の「飛・び・ま・す」

 この文の初めに書いた、山崎ハコのデビューアルバム「飛・び・ま・す」は、1975年にエレックレコードという会社から出ている。
 この会社は、上の「新宿フォークゲリラ事件」があった1969年に新宿で生まれ、吉田拓郎など多くのフォークスターを世に送り出し、新宿御苑の近くに大きなビルを建てたりしたあと、1976年に倒産してしまう。

 そのため山崎ハコは、キャニオンのAard-Varkレーベルへ移り、そこでもう一度アルバム「飛・び・ま・す」を出している。

 ちなみにキャニオンは、中島みゆきが所属する会社だ。まさか「類は友を呼ぶ」思いで、みゆきさんが引っぱったわけではありますまいな。

 この2枚の「飛・び・ま・す」のジャケットほかの写真を比べると、1975年という年――すなわち中島みゆきが「時代」を書き、松任谷由実が「『いちご白書』をもう一度」を書き、森田童子が「さよなら ぼくの ともだち」を書いた年――の特徴が、そこに現れているようでおもしろい。

 エレックから出た「飛・び・ま・す」は、山崎ハコの顔を最大限にアップにしたジャケット写真(いまのCDもこれ)を始めとして、暗い海岸に一人たたずむ、すごい目ぢからの写真、あるいは指名手配ふうの白黒写真など、何というか、「フォークゲリラの新闘士、ここに現る」といった感じの写真が勢ぞろいしている。

 これに対し、キャニオンの「飛・び・ま・す」のアルバム・ジャケットは、口に草笛でもくわえているような、アイドルふうの可愛い横顔写真である。
 ほかにも、青ジーンズでブランコに乗った「美少女アイドル」的フォトなど、写真全体の雰囲気が、がらり変貌している。

 ただ、入っている曲じたいは先述のように、「死ぬことばかりを考えたが、いまだに生きている……」(by 15歳)といった内容であり、曲とヴィジュアルのギャップがすごい。

 「影が見えない」ふうにいえば、キャニオンがこの人をどのように売ろうとしているのか、「方向が見えない」。
 いわゆる「ジャケット買い」でこれを買った人は、聴いてひっくり返ったろう。

 もちろん会社の違いが、二つの「飛・び・ま・す」の違いを作った面もあろう。

 しかし、70年安保闘争のあった1970年と、松田聖子などが登場する1980年――このころ、街で傷痍軍人の姿を目にすることはもはやなくなった――の真ん中の点、1975年の空気を、「飛・び・ま・す」のジャケット変化は、端的に示しているように感じる。
 買い手の、若者が求めるものの、急激な変化を映しているという意味で。

 (上に書いた写真群を見たい方がもしあれば: グーグルで「Discogs」というサイトを探し(これは米国のディスク・データベースサイト)、そこで検索ワード「飛びます」(日本語のまま)を入力。同アルバム(LP)のページにおいて、「より多くの画像」をポチると、上記の写真群が見られる。
 山崎ハコの情報は、もはや外国サイトのほうが豊富だったりするのだ。)

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