プロいらず、エレキいらず、お一人様可
まず、一つめは、当時ブームだった――正確にいえばブームが終わりかけていた――「フォークソング」というものの、特質である。
同じく自作自唱ジャンルでも、ロックとなれば、まず何人かで徒党(バンド)を組まなければならない。
当時、女子にあってこれは不可能に近いハードルであった。女の子バンドの出現など、世界レベルでも後世のことである。
しかし、フォークソングならアコ・ギ1本あれば、聴衆の前で自作曲をかんたんに披露できる。ピアノ等とちがって、それをする場所も自由だ。
最初はこれも、男だけが行うことであったが、フォークギターが普及し教則本などもあふれ出すと、女の子もやってみようかということになる。
フォークであれば米国に女性アーティストの大物もすでにいた。
日本でそうしたアマチュアがしだいに腕を上げ、男と伍するレベルになったのが、フォークブームの終盤という時期だったのだと思う。
それ以前は、才能のある女子がいたとしても、自分が作った曲を歌う道すじが無かったのだ。
「中・松」世代の女性アーティストの一斉出現は、横方向に影響しあい、刺激しあい、時には助けあったものでもあったのではないだろうか。
たとえば、松任谷由実(当時は荒井由実)は、フォーク畑の人ではなく、鍵盤系の人である。作曲家を志し、はじめ自分自身で歌うつもりはなかったという。
人のすすめでシンガーも兼ねることになったが、誰かがそんなふうにすすめた背景には、女性シンガー・ソングライターという存在が、「いて普通」と広く認識されるようになってきた状況があるだろう。
まだレコード・デビューこそしてなかったものの、1970年代に入ると、中島みゆきが道場破りのように、コンテストへ出ては賞をさらったりしていたわけである。
勝利の気分に味を占めて、コンテストの戸をたたく猛者の背後には、「いつもいつも、勝つ者だけが美しい」「落選が私のクセなのか」と、泣き狂う男たちが多数いたかもしれない。
こうした才女が何人か現れれば、切磋琢磨も生じるし、「うちの会社も、女性シンガー・ソングライター発掘してみようか」といった考も出てくる。横の影響関係で、みなが共に未踏の道を登っていった面もあると思う。
いま、「シンガー・ソングライター」という言葉は、昔ほど使われない。
専業の作詞家というものが激減し、自分で曲を書いて(ソングライト)、歌う(シング)ということが、わざわざ明示するほど特殊でなくなったためだろう。
しかし、上記のアーティストたちは、登場時、この長い名称でいちいち呼ばれるような、やはりまだ特殊な存在であった。
その特殊な感じ――当時のポップス「主流」は歌謡曲/演歌――を表すため、ここではあえて「シンガー・ソングライター」という言葉をちょくちょく書いている。
五輪真弓というシンガー・ソングライターがいる。この人は、米国のキャロル・キングにデモテープが認められ、彼女にピアノ・サポートまでしてもらって、1972年にデビューアルバムを作った。
キングは、2,200万枚も売れた名作アルバム「つづれおり」で名高い、米国を代表するシンガー・ソングライターである。
五輪真弓も、学生のころは米国の反戦フォークなどをカバーしていたそうだが、時代の空気の下、やがて自分自身の曲を作るようになったという。
山崎ハコと同世代という感じがしないので先ほど名前をあげなかったけれど、五輪真弓のデビューは松任谷由実と同年で、生まれも中島みゆきより1年早いにすぎない。上のような話になると、やはり名前を書かないわけにいかぬ。
要するに、この時期は、ほんとうに才がギュッと固まって出現しているのである。
私たちは気づけないが、この近辺は天照大神の生誕1万年とか、何か女子盛り上がりの特殊な空気に包まれていたのかもしれない。
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