シンの思い出
(2016/12/30)
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ことし大ヒットした、「シン・ゴジラ」。政府の要人たちまで、すすめ合ってかなり見たという、前代未聞の怪獣映画である。
過去のシリーズでは、映画の中で、ゴジラの出現に政府が動いていたが、映画の外で、政府が動くことはなかった。今回は、外までが動いた。
首相の、この映画に対するコメントでは、荻生田・官房副長官が首相に、「本当に参考になりますよ」と鑑賞をすすめたという話が語られていた。
これまではずっと、映画が一方的に政府を参考にしていたのだけども。
首相夫人も首相に、「リアリティがある」とこの作品を推奨したそうで、これも過去のゴジラ映画と方向が逆転している感じがある。まさに新時代のゴジラ。
原初の東宝「ゴジラ」の誕生は1954年。安倍晋三首相も1954年生まれ。ゴジラと首相は、もし近所で生まれていたら同級生ということになるだろう(なるか?)。
ならなくても、自分が生まれた年に作られた映画に、何だか親近感を覚えるといったことは、一般にあると思う。
長く力を維持しているという点では、シン-ゴジラは、「花の1954年組」といえるかも。
先祖返り+革新
生まれという点で言うと、私は今回の映画の総監督、庵野秀明監督と同世代(一つ違い)である。
この人が若いころ自主制作でつくった8ミリ特撮映画(「帰ってきたウルトラマン」のパロディ)を見る機会があり、その出来ばえには驚嘆した。技術、センス、熱意、いずれもが尋常でない。
その後の作品を見ても、今回の映画が優れたものになることは確実と思っていたが、実際の作品は予想をはるかに超えたクオリティであった。
しかも、音楽などもふくめて原初のゴジラへのリスペクトがすごい。
私は、たとえばプロ野球選手が登場音楽をきっちり決めていて、それだから瞬時に「空気」が生じ、観る人の心が躍るのと同じように、伊福部昭のあの音楽は、毎回変えずに(アレンジは別として)使ったほうがいいと思う。
お約束のように出てくることで、価値をもつものというのはあるのだ。今回そうしていたように、そこに別の音楽も足せばいいではないか。世代をこえて観客に共有される音楽があったほうがいい。
今回の映画からは、「伊福部サウンドをぜひ次世代へ伝えよう」という、庵野監督の強い意志を感じた(テレビで放映するときは、最後のとこカットされてしまうだろうが)。
映画の中身について書き出すと、一部だけふれて他を略すということが難しく、また、じきになされるだろうテレビ放映で初めて観る人も多いと思うので、今こまごま内容を書くことはどうかと感じる(この映画には、何も知らずに見たほうがいい部分がある)。
それゆえ、現時点で内容について書くのはよすことにしたい。
ここでは、「シン・ゴジラ」の中身でなく、単にタイトルに関係した、わりと(あるいは、部分によってはかなり)どうでもいい話を書くことにする。
この文の表題にも書いた、「シン」という部分である。
庵野監督は、この「シン」に、「真」「新」「神」といった意味をふくめていると語っている。
「真」は、アメリカ版ゴジラを意識しての「真」だろう。「神」は逆に、海外名称の"God"zillaを連想させる。
今回の作品は、60年を超えるシリーズの歴史で初めて、着ぐるみ(ゴジラ・スーツ)など特撮をいっさい使わない、完全CG映画となった。
スクリーンで暴れていたのは、現実世界で奥行きをもったことがない、徹頭徹尾・絵づらだけの「thin・ゴジラ」でもあったのだ。
こうした流れはしかたないことだと思うし、特撮愛で知られる庵野秀明がその決断をしたというところに、逆に納得も感じる。
ところで――。
「シン」という字がふくむ、「真」「新」「神」といった意味合いは、いきなりポンと三つ、同時にひらめいたものではないだろう。
これはまさに、同世代としての想像なのであるが――庵野監督の頭に、最初に浮かんだ「シン」は、ずばり「新」だったのではなかろうか?
実は、私はこのタイトルを初め、文字で見たのではなく、「庵野監督のゴジラのタイトル、『しん・ごじら』っていうらしいよ」という会話を街で耳にして、知ったのである。
そしてそのとき、「なるほど、そう来たか」と、ちょっとなつかしい感じがした。
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