今はあまり見かけなくなったのだが、年号が「昭和」のころは、あるヒット作品に対して続編的なものを作るとき、頭に「新」を付すというやり方が、一般的なものとしてあったのだ。
「新・荒野の七人」、「新・荒野の用心棒」、「新・猿の惑星」、「新・巨人の星」……といったふうに(「正」→「続」→「新」の場合もある)。
庵野監督は、かつてテレビ東京でやっていた「大江戸捜査網」という番組の大ファンだったと聞くが、この時代劇にも「新・大江戸捜査網」という続編があった。
そうした、昭和の命名感覚からの想像なのである。
タイトルへの「新」付けの、ちょっとおもしろい例は、NHKの長寿番組の、「日本紀行」→「新日本紀行」→「新日本紀行ふたたび」という変化。
新しいのか、懐古なのかわからない三つめのタイトルは、いっそ「帰ってきた新日本紀行」にしたらよかったのに(これは庵野監督にも喜ばれるだろう)。
「新日本紀行ふたたび」という題名は、よく考えると、「新・猿の惑星ふたたび」という題名と同じくらい、実は変である。
しかし、「新日本紀行」が、たとえば「新谷」という人名なみに一つに固有名詞化したあとでは、すんなり頭に入ってしまう。
まあ、そんなふうに、人気作を受けての復活作に「新」を付すのが、昭和のテレビ/映画タイトル界の命名法だったのである。
内容的には完全に続編であっても、「続」でなく「新」がしばしば用いられたのは、「続」にただよう、「二匹目のドジョウねらい」感が薄いためではないかと思う。
「続」やパートIIは、一般に「正」よりレベルが落ちる感じがするが、「新」だと、今の時代へフィットさせたようなプラス感さえある。
お茶でいえば、「二番煎じ」と「新茶」の印象のちがいというか。
「新」は簡潔で、そんなふうに重宝であり、現在も使われていておかしくないのだが、ある時期から、テレビ界や映画界であまり見かけなくなった。
現代の若者は、「しん・ごじら」という音を聞いたとき、あたりまえのように「しん」が「新」とキャッチされるというふうでは、きっとないだろう。
なぜ、状況は変化したのか?
あれが一つ、けっこう効いたのじゃないかと、個人的に思っているできごとがある。タイミング的にも、おおよそ符合しているような……。
祭りの終わりを告げた花火
かつて日本に、「バブル景気」と呼ばれるキンキラした一時期があった。
その始まりをいつと見るかは、1986~1988年あたりで諸説あるようだが、私見では、1987年、かのマイケル・ジャクソンが、ペット猿の「バブルス君」をつれて来日した時を始まりとするのが、憶えやすくてよいのではないかと思う。
ゴジラに関してさえ、米国からけっこう影響を受けるわが国であるから、いわんや、スーパースターMJのバブルスをや。
余談だが、来日時の記者会見で、マイケルとともに皆の注目をあびているバブルス君を見て、私の頭にフラッシュバックされた存在があった。
それは、これより十年ほど前、やはり米国から来日し、こちらは単独で記者会見が開かれた、「オリバー君」という謎の生物であった。
オリバー君は、染色体の本数がヒトとサルの中間であり、アフリカ大陸でヒトとサルの間に生まれてしまった存在だといわれていた。
直立歩行し、優雅にタバコをくゆらせたりする。
ゴールデンタイムに「オリバー特番」が放映され、学校へ行くと友達もたいていそれを見ていて、「センショクタイが中間だというなら、本物だろう」などと、染色体が何かもよく知らぬまま会話していた。
しかし、その後、染色体の数から何から、ぜんぶ大うそだったことがわかった。新猿でなく、真猿だったのだ!
タキシード姿でひょこひょこ歩き、タバコを吸ったりしていたのは、要するに、日光猿軍団が着物を着せられ、芸をしているのと同じだったのである。猿だって、飼い主が教えて吸わせば、そりゃあニコチン好きになるだろう。
見世物小屋でニセのろくろ首や、猫娘なんかを人々に見せる、そうした空気とつながっていたのが昭和という時代だった。
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