話をもどすと――その昭和も1989年に終わり、バブル景気がハジけたのは1991~1992年ごろとされる。
まさにこのころ、膨らんだアワが瞬時に消えるような、短期間で消えた派手な騒ぎが芸能界であった。
タレントが、所属事務所から独立しようとする。その際、両方の力でネームバリューを築いた「芸名」の使用権について、モメる。
今年もそんな話があったが(今回は、「芸名」=「本名」だったのにタレントが改名を強いられたようである)、このときも同様のことが起きた。
当時、「加勢大周」(かせ たいしゅう)という人気俳優がいた。彼が、事務所から独立し、芸名をそのまま使おうとしたのに対し、事務所が「まかりならぬ」と待ったをかけた。
結局、裁判に持ちこまれ、「加勢大周」はもともと事務所の社長が考えた名前だったにもかかわらず、俳優サイドが使用権を勝ちとった。
それはそれとして、すごいのはそのあとの展開である。
「加勢大周」という名前に特別な思い入れがある社長は、新たに別の若者を、なんと「新加勢大周」という名前でデビューさせたのである。
現代の、ネームバリューの高いタレント、たとえば木村拓哉が事務所から独立したとして(そういうことはないと思うが)、そのあと事務所が悔しがり、別人を「新木村拓哉」としてデビューさせるといったことが想像できるだろうか? 「新福山雅治」でも、「新堺雅人」でもいいけれど。
かの社長はまた、裁判で争う前に、「加勢大周」に類似した名前をじつに36個、あらかじめ商標登録して押さえようとした。
そこには、「加勢大周」や「新加勢大周」のほか、「東京加勢大周」といった名前がふくまれていたという。
この絨毯爆撃のような申請ぶりに、リストには「あせ たいしゅう」(汗 体臭)も入ってるんじゃないか、なんてギャグが当時とび交っていたのを思い出す。
加勢、新加勢、共にルックスも良く、二枚目俳優として成功の可能性はあったろうに、こんな騒動で芸名がギャグ感を帯びてしまっては、「二」のセンはアウトといえた。
「ふたり加勢大周」状態は、さすがにすぐ消滅したのだったが、この前代未聞のおバカ騒動が、テレビ業界・映画業界に強い印象を残さなかったはずはない。
私は、ドラマタイトルなどへ「新」を付す際の感覚にも、これが少なからず影響を与えたのではないかと疑う。
たとえば誰かが、「大岡越前」→「新・大岡越前」みたいな番組名を考えたとすると、以前なら単純に「それで行こう」となったものが、皆の心に「新加勢大周」というオトが記憶されて以降、「新大岡越前か……ちょっとなあ」「まじめな時代劇なのに、ギャグっぽく響くかな?」と、タブー感覚が生じたということはないか。
現れてすぐ消滅した結末なども、非常にゲンが悪い。
わが国ではもしかすると、「新」付けに関し、「ビフォー・新加勢」と「アフター・新加勢」といった時代区分ができるのかもしれない。
しかし――。
あれから20年以上の時がたち、ついに2016年、「シン・ゴジラ」のヒットによって、あのタイトル手法が表舞台へ復活しつつある――何か、アスファルトの割れ目から、新芽が頭を出すのを見る思いがするのである。
20年もたてば、人々の心のカセも薄れよう。
今年の流行に思う
さて、「新」付けの話は終わりにして、「シン」にかかわる、より未来志向(?)の話でしめくくりたい。
「シン・ゴジラ」という言葉は、今年の流行語大賞にもノミネートされていた。そのリストにならぶ、やはり「リバイバル+アルファ」でヒットした「おそ松さん」なども見ながら、思うことがある。
「おそ松くん」にかぎらず、赤塚不二夫の漫画というのは、パロディ精神にあふれていると共に、それ自体をパロディ化しやすい性質をもっている。
ハチャメチャなパロディ作品をつくっても、原作のファンが、怒るどころか喜ぶタイプの漫画なのだ。
そのことを怒るような人は、そもそもこの漫画家のファンにならない(他方、「あしたのジョー」のような漫画に対し、パロディや悪ふざけをやったら、命がいくつあっても足りない)。
半世紀も前に描かれた「おそ松くん」が、新しいアイデアと合体してヒットしたさまは、名キャラ、ゴジラ同様に、赤塚漫画が時代を超えた力をもっていることを示している。
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