カラフルだった年
ここで話が、がらり変わるようで恐縮であるが――。(まあ、この欄が政治の話のみで塗りつぶされるのも、それはそれでぶきみだ)
世界には、さまざまな肌の色をもつ民族がいる。当然のことながら、各々のなかでは男も女も肌の色はきっちり同じだ。
にもかかわらず、女には男にくらべ、なぜ「カラフル」なイメージがあるのだろうか?
色つきの服を着ることが多いから? それもあろうが、全部ではないと思う。
日本語には「色っぽい」「色香」といった言葉があって、女の場合だけ使われるが、着ている服の色からそれが出てくる感じがするかといえば、むしろ「本体」から伝わってくる印象がある(黒ずくめの服でも、色っぽいものは色っぽい)。
口紅の赤などは、そこにちょっと影響しているかもしれないが……。
まあ、もちろん服装の点もふくめて、女性にはカラフルな印象がともなっている。
そうした基礎状況であるから、職業的な理由なしに男がカラフルな服装をしていると、直感的に「まともじゃない」「中身も、たぶん変なやつだ」というふうに感じてしまう。
その感覚の強烈なスリコミは、日本の場合、ランドセルあたりから始まっているだろう。
女は赤色で、男は黒。
「黒」というのは、光がない状態なのだから、この女・男分けは、「色」対「色なし」に等しい。
最近は、さまざまな色のランドセルが売られるようになってきたが、このバラエティも、実のところ主に女の子向けのようである。
先ほど、社会主義国の指導者たちの映像を見た話を書いたが、その第一印象は、「男ばかり」より、むしろ「真っ黒だ」というものであった(社会主義=赤色のイメージと、この点はちがって)。
もちろん、黒は威厳を感じさせる色であるし、政治はファッションショーの場ではない。
しかし、人々がそろって真っ黒なさまは、何というか、どうしたって「お葬式」のイメージともダブる。
西洋や日本の国会のほうが、視覚的には生き生きしている。
色を武器にして
英国で、メイ氏が二人めの女性首相に就任したそのほんの半月後、日本では、女性初の都知事、小池百合子知事が誕生した。
与党(自民、公明)が推した候補と、野党4党連合が推した候補の、両方を向こうに回して「圧勝」したという結果もまた、都知事選で前代未聞だろう。
この勝利にはさまざまな原因があるだろうが、ひとつ、見ていて「あれは効果的な作戦だなあ」と感じたことがある。
それは「色」の使い方なのである。
小池候補は、イメージカラーを「緑」に決め、自分が緑の服をいつも着るだけでなく、街頭演説を聞きにくる人たちに、「何か緑のものを身につけてお集まりください」と呼びかけていた。
そのため、テレビが、3(主要)候補の演説の様子を映すと、ふつうならどれも「人がたくさんいます」というだけの、目を引かぬ光景なのだが、小池候補の演説が映ると、その聴衆だけが鮮やかなグリーンで一面おおわれている。
これが、都民のなかにいま「小池ムーブメントが生じている!」という印象を、すごく与えるのだ。
子どものころ、スポーツチームなどで同じユニフォームを着ていると、何だか自然に連帯感を抱いてしまうものだったが、あのグリーンは、そういう感覚を生じさすものでもあったろう。
こういう作戦は、たとえ効果的だと思っても、男の候補は取り入れられない。
おじさんの知事候補が、選挙が始まったとたん鮮やかな緑のスーツを身にまとい、「皆さん、何か緑のものを身につけてお集まりください!」なんて呼びかけたら、すごくうさんくさいものになろう。人気下落は必至だ。
ここには、有効な作戦に関して男を制約している「ガラスの天井」がある。世間が、暗黙のうちに、じつに男女差別なバッテンをつける。
小池候補は、「色じかけ」で選挙を戦ったなどと表現したら、この言葉は良くない意味があるから絶対怒られるけれども、「色のしかけ」を、実にうまく使ったのはまちがいないのである。
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