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世界と日本

 物事の「チェンジ」ぶりという点に関して、ついでに余談なのだが――。

 わが国ではよく、「ここに来て○○を変更するなんて、国際的信用を失うことだ」といった言葉が語られる。
 しかし、まさに世界スタンダードに照らしたとき、われわれ、マジメすぎるのではないか。根本的な気質として。

 たとえばサッカーの世界などでも、日本に来たヨーロッパ人や南米人の監督が、口をそろえて日本選手は「ズルさ」を欠くと指摘する。

 キマジメが悪いわけではない。国内は、私たちのスタンダードで当然いい。
 しかし、「このことを外国がどう感じるだろう?」と想像する際には、TPPをめぐる米国の、すばやいちゃぶ台用意/ちゃぶ台返しの光景などを、それはそれで思い出すべきだ。

 米国が、必ずしも特殊なのではない。ヨーロッパや南米や、その他の国々のスタンダードに照らしても、日本が特殊――ガラパゴス的――なのだと思う。

 たとえば、上記のちゃぶ台返しをしたトランプ氏が、「我々とはわかりあえない存在だ」と語っていた中東のイスラムの人々。

 私はむかし、仕事でそうした人々とモロに「押す、引く」的交渉をしたことがあるのだが、「スジとしてどうだ」を気にするところがほとんどなく、むしろ、「言い方によって、どれだけぶんどれるかを、主に考えている」「前言のひっくり返しを、抵抗なくする」「それでも、明らかにいい人だ」という、強烈な印象が残っている。

 かの国の人々はトランプ氏と、この点でそんなに距離がないだろう。

 高い壁があるとすれば、「日本」と「世界」の間に存在するのであって、そこで「日本流のほうが正しい」などと言い張れる根拠は、あればうれしいけど、ないのだ。

 トランプ氏は選挙後に、いくつかの点で主張をがらり変えたが(主にちゃぶ台を戻す方向へ)、注目すべきはトランプ氏個人より、むしろ彼を支持した人々が、この変貌をそんなに「公約違反だ」と怒っていないことである。

「東側」の天井

 むかし、ロシアや、欧州の東半分がずらり社会主義国だったころの話である。
 いろいろな国の内閣だとか、「最高会議幹部会議」だとかが、テレビで映される絵づらを見ているうち、ひとつ素朴に感じたことがある。

 それは、「社会主義」と「男権主義」には、親和性があるのだろうか、ということであった。社会主義国は、国の上層部がほぼ男一色だったのである。

 なかでも、意外に感じたのは中国だ。私はこの国の文化に敬意をもっており、いろいろな方向から知っているのだが、女が働くと「職業婦人」といったことばで特殊視されてきた日本に比べ、中国では、女も男と同じように働く、あるいは男女の区別が「小さい」といった印象があった。

 ところが国の統治者となると、これは現在も同じであるが、日本には女性大臣や、女性党首や、女の総理大臣候補が多々いるのに、中国の「中央政治局常務委員」はずらり男である(これまで、女性がなったことはない)。

 アジアでは、中国の周辺国で何人か女性トップが現れているけれど、中国では、「現れていない」というより、現れる気配じたいがゼロに感じられる。

 ソ連や東欧諸国もそのように見えた(東ドイツ生まれのメルケルさんは、体制があのままなら国のトップになることはまずなかったと思う)。

 なぜ、こんなふうなのだろうか?

 のちに、明確な原因に思い当たった。ここでカギとなる言葉は「普通選挙」であろう。

 すなわち、国民全員の自由な選挙で、政治家が直接/間接的に決まる国では、国民の半分は女であるゆえ、そこがその気になれば女の統治者はたくさん生まれる。

 しかし、普通選挙がなく、現在の権力者が内輪で次の権力者を決めていくシステムにあっては、黒が黒を生む伝統的循環に、ツッコミの入りようがないのだと思う。

 (ただし、女が国のトップになった→「女性の社会進出度が高い」とは、必ずしもいえない。「偉大な指導者の娘」といった血筋で、そうなっているケースが多々あるからだ。
 「王」の子が「王」になるという、むしろ昔ながらの感覚であり、そうした人々は、サッチャー/メルケル/メイといった存在と、近いのでなく対照的な存在といえよう。)

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