革命作「新宝島」は、いま見ても映画を観ているような感覚を呼び起こす。
それはひとつには、コマの大きさや形がチョコマカ変化せず、ほぼすべてが同サイズの横長形状――まさにスクリーン形状――であるためだ。
パラパラ漫画を見ていく感じに近いというか、とても楽に、リズミカルに読み進められる。
この漫画家ならではの天才的なセンスと感じるのは、先ほどの指摘のように、冒頭のスポーツカーの疾走シーンに、セリフはもちろん擬音すら書き入れていないところである。
こうしたシーンを書く場合、ふつうならただ「各コマでどんな擬音をえらぶか」へ頭が行くであろう。「ブロロロ……」とか「グォーン」とか。
しかし、ここでは(他の作品もみなそうだというのではないが)、絵だけを積み重ねていることがこの迫力を生んでいる。
音のひびきが文字で強制されないからこそ、逆にこちらの心に自由に轟音がひびくのである。
手塚治虫は、おもしろい話を作れる、魅力ある絵を描けるという以上に、日本の漫画や、後輩たちのありよう(漫画観)を土台から激変させる点で、多大な貢献があった天才だったのだ。
「大変だぁ、飛行機が爆発したぁ」という、ちょっと変な創造性くらい、微笑んで受容すべきであろう。
お笑いと発明
大阪の街に関する、個人的な思い出も少し書くことにしたい。
若いころ、私はときどき東京から大阪へ遊びに行っていた。
金曜の夜に寝台車で行くと、週末に朝から時間が取れ、旅費も実に安あがりだった。宿泊費も浮く。そして月曜の朝にまた寝台車で帰ってくる。
いまは寝台車というと、むしろ高級な旅行手段になってしまったけれども。
着くのは早朝なので、まずは毎度、黒門市場へ行ったため、東京の築地市場より黒門市場のほうにずっとなじみがあるという……。
お笑い系の劇場も、よく訪れた場所である。いまは無き劇場「中座」で藤山寛美を見るとか、もちろん、花月とか。
吉本興業が東京へ大進出する前で、インターネットも存在しない時代だから、当時は東京にいると、一部の大物は別として、大阪の芸人を見る機会はなかったのである。
東京の、この種の場所もむろん知っていたので、両者の雰囲気の「違い」にはけっこう驚いた。
ひと言でいえば、しゃべっていいこと、やっていいことの「許容範囲」が、えらく違っている。むろん大阪の許容範囲のほうが、全方向的に広い。
いわゆる「下ネタ」方向、仲間や相方の私生活暴露、どつきの物理的インパクト、神様たる「お客」のからかい方、大御所芸人や自らの社長などを「平気でいじる」、けっこうやばいスキャンダルも時間がたつとネタに入れてくる感じ、等々である。
関西起源の、着ぐるみに関する現代のコトバを借りれば、「大阪の街」のキャラを、「ゆるキャラ」と表現できるのではないか。「それはいかん!」という、「たが」がすごくゆるい。
東京は、元々はそうでなかったと思うが、今は日本中から人が流入し、地縁的結びつきが薄いので、人と人の関係がわりあい分離的だ。
これに対し、ぜんぜん知らないおばちゃんが、会話に自然に入り込んでくる感じを見ると、大阪は大きな一つの長屋のようである。お互い、すごく無礼講なのはそのせいもあるのかもしれない。
赤の他人にお腹を通させている、あの「ゲートタワービル」は、何だかこの印象とも重なる。
もっとも、地域の人々が密に親しい土地は、全国に多数あるのだが……。
大阪には仕事の要請でも長期滞在することがあったが、宿で夜、テレビを見ていると、やはり「ここまで、アリなのか」「許容範囲が、お釈迦様の手のひらのように広い」という思いが、しばしばした。
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