いにしえのスポーツ根性マンガ、「巨人の星」に、「大リーグボール養成ギプス」という、ものすごい筋トレ・ギプスが出てくる。
星一徹という鬼おやじが、小学生の息子・飛雄馬に常時これを付けさせ、字を書くのさえ苦労する状態にする(ヒューマニズムをすごく欠く人が、子供に飛雄馬という名をつけている)。
しかし、おかげで飛雄馬は、子供ながら目にも止まらぬ剛速球を投げられるようになる。
大阪のテレビ番組や、花月の舞台の出し物は、私にはあたかも、「タブー無し」養成ギプスのように映った。特に、深夜帯の番組が、鬼のごとしだ。
(余談だが、お茶の間というものが消え、録画で深夜番組を簡単に日中見られるようになっても、「この内容は深夜なら許されますよね?」という暗黙の了解みたいなものは、ぜんぜん変わらないなぁ)
とんでとんで、まわってまわって
「何でもあり」であることが、どんなケースでもすばらしい結果を生むわけではない。
しかし、少なくとも、先ほど挙げたような大胆な新発明・考案といった方面では、こうした柔軟性は良い方向に作用するだろう。
発明というのは、必ずしも頭脳の明晰さの問題でなく、しばしば、自由な発想を妨害する、頭の「たが」の問題だからである。
娯楽の話を、物やサービスの発明と一緒くたにするなと思われるかもしれない。けれども――。
このまえ別欄で、歌舞伎の、三代目市川猿之助の「宙乗り」について書いた。役者が天井から宙吊りになるという、大胆な演出である。
最初は白い眼で見られ、時をへて一般的な演出になったこれも、元は三代目實川延若が大阪でやっていたのを、猿之助が取り入れたものなのだ(そもそもの起源は、また別所であるが)。
この宙吊りアイデアなどは、娯楽界にあっての「何でもあり」精神と、伝統料理をベルトコンベヤーで回す回転寿司の「何でもあり」発想(実用アイデア)とが、完全に地続きであることを示す例に思われるのである。
花月のような場所で私がもう一つ感じたことは、同じタレントであっても、全国ネットのテレビ放送で見るのと、大阪の「劇場」で見るのとでは、えらく印象が異なるということであった。
番組スポンサーへの配慮や、全国向けにマイルドにする意図があるのだろうが、彼らは全国ネットのテレビの場合、パンツを2枚くらい余計にはいてしゃべっている感じである(←安藤忠雄オマージュ)。
先ほど書いた話は、大阪のタレントを他所でテレビで見ても、あまりピンと来ないことかもしれない。この人、こんなにスゴかったのかと、劇場で驚くことが多々あった。
薄くて濃い街
「いらち」(せっかち、気が短い)という言葉が大阪にあり、これは大阪の気質そのものを表しているとも言われる。
むかし、国際交通安全学会が行った調査によると、日本において、人が歩く速さが最も速いのは大阪(秒速1.60m)で、次が僅差で東京(1.56m)だという。
たとえば、同じ西の大都市・福岡は1.35mとゆっくりであり、西日本が全体に速めということではなさそうだ。ちなみに、名古屋は1.48mで、これはパリ(1.46m)とほとんど同じ値。
秒速1.60mと1.56mできわどく競る土地、東京に住むせいか、私は大阪で、この「いらち」という印象を受けたことはほとんどない。
しかし、一ヶ所だけ、それを強く感じた場所がある。花月である。
舞台に芸人が出てきて、話し出す。そこで、なかなか「笑い部分」が出ないときの、お客さんたちの、「はよせい」感。
これは、東京の劇場客のこの点の寛容さと、おおよその推定だが、3倍くらい違いがある。
内容に、笑いが「密」に詰まっていないといけないのだ。さすが、しゃべくり漫才が生まれてくる地である(必要は発明の母)。
大阪の人は、この方向において、いちばん「いらち」なのではないか。芸人には、話の「笑い濃度」が、すごく要求される。
関西の人が関東へ来て、飲食店へ入ると、「味が濃い」「何だこの、醤油そのままみたいな、うどんのつゆは」と思うだろう(東京は、全国からの人の流入で中立化してきているところもあるけれど)。
しかし、東から西へ行くと、逆に非常に濃くなるものもあるのだ。
「こてこて」と聞くと、何だかパッと「大阪」という地名が連想されるが、あれは元来、「極端なまでに濃い」ことを意味する一般語である。
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