ガメラはゴジラ以上に、今の子供たちになじみの薄い存在である。ハリウッド版ゴジラのような追い風も無い。
「ガメラ生誕50周年」を記念して、昨年、短い新映像が作られたようだが、ほんとうはゴジラの50周年、60周年作品のように、ここで「映画」を作りたかったところだと思うのだ。
そうならなかったのは、いまの子供/若者たちにこの怪獣があまり知られておらず、「お客さん、入るかなあ?」という肝心なところに不安があったためではないか。
実は、私が先ほど「アキバにガメラ像を」と書いたとき、そこにはかなり、カメラ目線ならぬ「ガメラ目線」が入っていたのであった。
アキバはいま、日本だけでなく世界中から若者が集まる、若者文化の一つの聖地になっている。
この街に、屋上でも利用してガメラの像が建ったとすれば、それを戴冠している建物のみならず、ガメラ側にも非常に価値があることだろう。
これはガメラ「で」広報したい人、ガメラ「を」広報したい人、両方にメリットのある「ウィン-ウィン」に思われるのだ(この言葉は、今回の話の通奏低音のようなものである)。
あの、「人」という漢字が、ここでまたちょっと私の頭をよぎっていないかといえば、よぎっているのだ。
この日本の名キャラが、今はただお蔵入りして、過去に築いた価値を減少させている状況が残念でならない。古来、1万年生きると言われてきたカメを、50周年くらいで我々が死滅させてよいのか?
必ずしもカメラ店でなくてもいいので、たとえば、むかし日本一のホームラン打者をCM起用した実績をもつ亀屋万年堂さんあたりに、また大ホームランを放つ意欲はないだろうか?
もちろん、ガメラ招致の主体は特定の店でなく、歌舞伎町のようにどこかの「街」でもいいのである。「○○カメラ」の屋上に、というのは、いくぶん、拙著「まいど~」の延長のようなつもりで書いたものだ。
西の地の諸発明
これ自体とはいわないけれど、この種の冗談スレスレのことは、たとえば大阪の地だったら案外ポッと現実化するかもしれないと思う。そういう大胆なものを、実際にいろいろ見かけるからである。
「おもしろい」と「利がある」がそろいさえすれば、「ばかばかしい」は否定的な力をもたないというか、ときどきプラスの色あいを帯びるというか……。
仮にガメラ像が大阪に建てられたなら、きっとその4本の足は、よりオモシロクするため、ユラユラ揺らされることだろう。あの、大ガニのように。
ここで、タイトルに並べていた、三つめの話に入ることにする。すなわち、「大阪」である。
なぜ私が大阪のことを書くのか、初めに記したほうがいいだろう。
物事は、そこの人間でなければわからないことと、質がちがう外部者が見るからこそ、その特徴が印象づけられることと、両方があると思う。
最近、日本を訪れる外国人が非常に増え、彼らのコメントがしばしばテレビやネットで紹介されている。それを聞く(見る)と、こちらにとってそんなあたりまえのことが外部から見ると価値であるのか、あるいはおもしろいのかと、初めて思うことがある。
同じニッポン国内に、日本と外国ほど互いに大きな差があるわけではないが、以下に書くことはそれにちょっと似ていよう。
よく言われることであるが、大阪という地からは、新しい発想で、そののち日本中(時には世界中)へ広まるような発明物がぽこぽこ出てくる。
インスタントラーメンだとか、回転寿司だとか、レトルトカレーだとか、刃がポキポキ折れるカッターだとか、カプセルホテルだとか、屋上ビアガーデンだとか……。
これは物でなく人だけれど、漫画/アニメの世界に革命を起こした手塚治虫なんていう人物もいる(この人については、あとでまたふれたい)。
回転寿司は、今はごくあたりまえの存在になっていて、外国人など、寿司といえばまず思い浮かべるのはあのスタイルかもしれない。
しかし、従来の寿司屋だけが存在する世界にあっては、あれはとんでもない発想である。昔かたぎの寿司職人には、ベルトコンベアーの寿司循環システムなぞ、寿司という料理の冒涜に感じられたことだろう。
屋上ビアガーデンにしても、現にできてみればいろいろ良い点があることがわかるが(だから、あっという間に日本中に広まったのだが)、実際に最初の一歩を踏み出した人は、やはり実に頭が柔らかいといえる。
大阪という地は、突飛な思いつき、従来とまるで違う着想も、「そんな馬鹿な」と常識で却下するところが甚だ少なく見えるのである。
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