ここで「原動力」「危機感」と呼んでみたものは、最終的には法律などのしくみ作りの背を、世論としての押す力である。分散化の推進に意欲をもつ人を数多く選挙で当選させることによって、それは現実的な力になる。
東京以外が地盤の議員は、こうした動きに基本的に賛成だと思われる。
一方、実際に分散化が進めば、東京都の税収はそれだけ減少する。都にも、サービスを受ける都民にもマイナスの影響がある。
しかし、私はそれでも総合的に見たなら、都民は他の地域の人々と対立する所にはけっして立っていないと考えるのである。
天災というより人災
分散化を促すしくみ――税的な優遇や、いくぶん強制的な集中制限といったもの――は、実質的には、地震被害軽減対策だとか、首都東京の安全確保とか、「日本の機能」の保持対策といった意味づけで、とらえておかしくないものだ。
不吉なことを書いて恐縮であるが(しかし、ほんとうはいつも頭に置くべきことだ)、こうした話を書いている根っこには、東京を含め日本のほとんどの地は、いずれ確実に大地震に襲われるという、日本民族としての感覚がある。
しかし、過去をふり返って、これと同じくらい確実に思われることは、列島全体がいっぺんに地震に襲われるといった出来事は、起きないということである。
これがこの列島に与えられた条件であり、私たちはそれに合った備えをするしかない。
東京・荒川の決壊の可能性という話に、先ほどふれた。この危険に、どうしても対策が施せない大きな原因は、先述のように建物の密集に関係している。
そして、現状では対策の施しようがないため、そのことは考えまい、(起きうる)豪雨が起きないことを祈ろうというふうになっている。地震のことを、ふだんなるべく考えたくないのに似ている。
また、そんなに高い堤防は作れないほど荒川の水位が上がりうるとか、周囲の街への浸水は最大で5m以上の高さだとか(内閣府の試算)、広範な住居範囲がほぼすべて水没するといった話を聞くと、どうしたって津波のあの映像が思い出されてくる。
まさに、この災害は地震に似ているのだ。
しかし、こちらはもし起きたら、過度の密集緩和に手を打たなかった、完全な人災である(近ごろの集中豪雨じたいが、人災かもしれないのだが)。
分散化は、首都の安全対策でもあると書いたのは例えばそういう意味なのだ。
東日本大震災があったあと、ある映像で、神戸の商店街の人が、東北の町おこしを助ける運動をしているのを観た。少し前に同じことを経験した者として、遠いが放っておけないということであった。
近畿から見ると、東京のさらに向こうにある東北は、日ごろあまり縁を感じない地だと思うのだが(それこそ、東西対抗の「敵チーム」くらいだろう)、いざ大災害となれば、日本のなかにはこのような連帯の意識が生じるのだと感じた。
私の頭のなかにはいま、薬師寺の東塔と西塔が傾いて、「人」という字にもたれあうイメージが何だか湧いているのだ。
しかし、こうした支援が可能であるのも各地が元気であってこそである。
東京が集中の度を増し、ほかの地域が弱っていった極で、地震で東京が崩壊したらどうなるのだろう? 東京もむろんながら、日本じたいが。
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