ツブヤキ(2015/6/24):
先日、別欄に書いた福岡伸一・監修のフェルメール展ですが、私の情報不足で、この催しはとっくに全国展開していたのでした(失礼)。
とにかく中身にびっくりしたので、催しの背景はあまり調べず、だだだっと書いてしまいました。
展示の内容・方法の魅力、フェルメールの人気からすれば、日本中で開かれることになるのは当然といえましょう。
「アトリエで仕事をするフェルメールを10分でも観察できるなら、この右腕を切り落としてもいい」――これは、あの、サルバドール・燃えるキリン・ダリの、フェルメール絶賛の言葉です。
ダリは、いかにも自信家の彼らしい「上から目線」で、西洋美術史に輝く大画家たちを、九つの観点(技術、インスピレーション、色彩、……)で採点するということをしています。
採点対象のなかに自分も入れており、総合点で、彼自身がしっかり上位に位置しているという……。
トップにしていない点は、むしろこの人なりの謙虚さなのかも。
満点が180点である、その採点結果を見ると、フェルメールが179点で、ほぼ満点の第一位です。
二位以下は、ラファエロ、ベラスケス、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ダリ、ピカソ、……となっています。
ラファエロ、ベラスケス、レオナルド・ダ・ヴィンチという、「西洋絵画の神々」の上にフェルメールを置いている点と、ピカソの上に自分を置いている点が、このランキングのミソではなかろうか。
ピカソにしたら、20歳以上も年下の、自国(スペイン)の後輩画家ダリに、勝手にあれこれ採点されたばかりか、当のダリより下位にランク付けされたわけで、こんな情報が伝わったら、その顔はゲルニカのように歪んだにちがいありません
逆に、こういう恐いものなしの自信家ダリに、「その仕事を10分でも観察できるなら、右腕を切り落としてもいい」とまで言わせたフェルメールはたいしたものです。
もっともこの人は、人間のお腹から「引き出し」が出ている絵なんか、ぜったい描かないタイプの画家なのだけれど。
(ダリがああした絵を、名刺代わりにかかえ、熱く「仕事を見せてください」と訪ねてきたら、フェルメールは見学ことわると思うなあ)
お知らせ(2015/3/6):
アマゾンの電子書籍は、今年に入ってからパソコンでも読めるようになりました。
パソコンの、横長の大きな画面が一番活きそうなのは、マンガの見開き表示あたりでしょうか。あの世界は、最初の雑誌掲載→単行本→文庫本→ついにはスマホ画面と、絵が縮む方向ばかりへ進んでいたのが、初めての方向転換。
ところで、これも方向転換というか、ノートパソコンからタブレットへ、ガラケーからスマホへという移行がこのごろ鈍り、古株のノートパソコンとガラケーが盛り返しているようです。
両者に共通する点といえば、キーをしっかりカチカチ押せる点と、「折りたたみ」性。
スマートフォンの「フォン」は電話で、いまも名前は電話機であるのに、大型化するにつれ、耳に当てる姿がかなり恥ずかしいものになって来ている点も、電話使用が多い人は抵抗を感じるところかも……。
ツブヤキ(2015/2/26):
少し前に、大学で「秋入学」を導入しようという動きがあったが、ぽしゃったようだ。日本全体が春スタートで動いているなか、中途部分だけ「半年ずらし」することはなかなか難しかろう。
桜の季節に新規スタートというのは、日本人の生活感覚によく合ってもいる。今後もグローバル化は進むだろうが、どこかで社会全体をエイヤッと「秋始まり」へチェンジするなんてことも、まず起きないにちがいない。
しかし、それはそれとして、「もし秋入学のしくみだったら、こういう不安――あるいは実際の悲劇――は日本から消えるのだが」と毎年つい思ってしまうのが、いまの季節である。
学校への入学が春であるために、雪で交通機関が止まったり、インフルエンザが大いに流行ったりする時期と、入試のタイミングがぴたり一致してしまっている。
テレビで「明日は大雪になるでしょう」という予報や、かぜ蔓延のニュースなどを見ると、「たしか今は私立高校の入試時期だったよな」などと思う。(ことしは雪は少なめだったけれども、降るところではやはり降っている)
新緑のなかの入学式も良いが、入学時期が9月で、夏休みがそのまま学年の区切りになっているというのも、これはこれですっきりした話である。
そのような区切り方なら、子供たちは上記のような冬特有の心配だけでなく、「夏休みの宿題」なるイヤなものからも解放されることだろう。クラスや先生、あるいは学校自体が変わるのに、宿題なぞ課すわけにはいかない。
思うに、夏休みの宿題ほど、その苦痛感、労力のわりに価値が感じられないものがあろうか。
子供のころの夏休みという、実に貴重で、実にかぎられた時間全体へ、あの「宿題」はどんより不快な空気をまとわりつかせ、しかも将来ふり返ったとき、「いま思い返すと、あのときの苦労が役に立っているなあ」ということが、まったくないのである。
先生だって、新学期が始まって忙しいなか、やっつけ仕事ぞろいの提出物をチェックするのはしんどいだろう。
秋入学方式の導入は、たとえ部分的でも(部分的だからむしろ?)難しいだろうが、同じ昔からの慣習とはいえ、夏休みの宿題を出すのをよすことに実際的問題はない。
夏休みの宿題に関する難しいことといえば――その利点を説得力をもって言うことくらいである。このガラパゴス的な苦役・無益の慣習は、ポンと廃したらどうだろうか。
冬に、きっかり半年ずれた夏休みのことを熱くつぶやくのは妙な話である。しかし、小さいなかに春・夏・秋・冬をふくんだ、何やら日本的なツブヤキになったかもしれない。
ちなみに、「入学」は、俳句の世界で春の代表的な季語になっている。
秋入学の導入の議論に、それが生む問題の一つとして、「既存の俳句に迷惑をおよぼす」というのは挙がっていたろうか?(挙がっていたら、むしろ驚くが)
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