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 ゴジラ、ガメラなどの映画を子供のころよく観ていた私は、この「怪獣王ゴジラ」に接して、「すべてのルーツは、ゴジラ初作にあったのか!」と、ヒザを打つ思いがした。

 それはひとことでいえば、「観客の分身」の価値ということなのである。

 それから、ぱっと「ミニラ」という小怪獣のマヌケな顔が頭に浮かんだ……のだが、これはちょっと話を先走りすぎている。

 ゴジラ第一作に、レイモンド・バーという西洋人がかなり強引に挿入されたのは、たとえセリフをすべて英語に吹き替えても、物語に出てくるのが東洋人ばかりでは、アメリカの観客が映画に距離を感じてしまうためだろう。

 バーがあらゆる場面に出てくることによって、西洋のお客さんも、実際にゴジラを目撃したり、恵美子や芹沢と会っているような気持ちになる。

 ゴジラ映画は、シリーズが進むにつれ、次第に内容が子供向けに変わっていった。するとそれに伴って、映画のスクリーンのなかにも、しばしば子供が登場するようになった。「観客の分身」役である。

 もしかすると、レイモンド・バーを加えた「怪獣王ゴジラ」がアメリカでみごとにヒットしたさまを見て、東宝の怪獣関係者は「なるほど、ああやれば観客はいっぺんに映画に親しみを持つんだ」ということを、体験的に感じとったのではないだろうか。

 ガメラシリーズを作った大映となると、この「分身手法」の使用はいっそう意図明瞭となる。映画に「西洋人の子供」が登場し、日本人の子供とペアを組むようになるのだ。

 ガメラも実はゴジラ同様、欧米でかなり人気を得た映画である。また、ガメラは作品の大半がはっきり子供向けであった。
 「西洋の子供」を映画に出演させるというのは、まさに一石二鳥的なねらいだったろう。

 あの子らも、今ごろは50代くらいのオッサンになって、どこかで生きているのだろうな。

 先ほどふれた「フランケンシュタイン対地底怪獣」やゴジラの「怪獣大戦争」では、アカデミー賞ノミネート経験をもつ俳優ニック・アダムスを、東宝自らが、バー的意味合いで最初から映画に出演させている。

 「サンダ対ガイラ」という映画にも、名画「ウエストサイド物語」のジェット団リーダーでおなじみの、ラス・タンブリンを起用している。

 彼らは大人だけれど、ここでの意味合いは「バー・チルドレン」と言えるだろう。

 (これは分身手法とは関係ないが、「ウエストサイド物語」でシャーク団リーダーを演じたジョージ・チャキリスも、のちに来日してNHKのテレビドラマで小泉八雲を演じた。

 ラス・タンブリンとジョージ・チャキリスは、「ウエスト(西)サイド」だけだとバランスが悪いので、極東に来て「イーストサイド物語」もやったのだと個人的には解釈している)

 「怪獣王ゴジラ」は、それが直にヒントにされた場合もされなかった場合もあるだろうが、こうした「分身手法」の原点になっているのだ。

 日米間で、片方での上映をにらんでその国の人をもう片方の映画へ混ぜるなんてグローバルな手法が、太平洋戦争より前に使われたとは思えない。

 この映画の影響は、ほんとうにゴジラ的に大きかった可能性がある。

 この文章の最初のほうで、2014ゴジラへの渡辺謙の起用は、ただゴジラの母国は日本だから日本の俳優をという以上に、ゴジラ史的に意味があると書いた。それはこの伝統必殺の「分身手法」ということだったのである。

 エドワーズ監督はインタビューで、自分のゴジラ映画を特に日本でコケさすわけにいかないと語っていた。

 彼はまさしく「西洋の子供」として、バーの映画をゴジラ第一作だと思って楽しんだ上に、子供が登場するその後のゴジラ・ガメラ映画をごっそり観てきた人だ。
 「分身手法」がどれほど効果的か、きっと私の2倍くらいよく知っているにちがいない。

 ここには何とも雄大な、「分身手法ブーメラン」の運動がある。

 このブーメランは、ほぼ60年前にアメリカでレイモンド・バーが投げ、以後ずっと日本の上を飛び、30年くらい前にアメリカに戻ったのをバーがまた投げ、日本でガメラと一緒に飛んだりしたあと、ことしアメリカに帰ったのだ(ジラのときは、正統の怪獣映画でないので戻りませんでした)。

 かように多用されてきた分身手法だが、ゴジラシリーズにおいてこれが大失敗した例がある。その「分身」とは、ゴジラの息子、ミニラである。

 この怪獣をご存じない方は、ネットで、検索語「ミニラ」で画像検索していただきたい。とっつぁんのような顔をした小獣の姿が現れるであろう。

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