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ツブヤキ(2017/2/10):
 先日、電車に乗って座っているとき、となりの席で年配の女性ふたりが、孫に「ばあば」と呼ばれるのがイヤだという会話をしていた。
 以前それが一般的だったように、「おばあさん」と呼んでほしいということであった。

 たしかに、はたで耳にしても、「ばあば」という言葉は、「おばあさん」とちがって品が無いというか、音として汚くひびく。

 これは必ずしも慣れの問題ではなく、この言葉が、「ばばあ」という印象のわるい言葉に、音がきわめて近いことに因っているだろう。ほとんどの場合、悪意をふくんで相手に言い放たれる言葉である(例外は毒蝮三太夫)。「じいじ」⇔「じじい」の類ジイ性も同様だ。

 しゃべりに不慣れな幼児にとって、「ばあば」⇔「ばばあ」は、もともと区別しにくい言葉。

 子供がうっかりばあばのことを「ばばあ」と呼んでしまい、周囲の大人がどっと笑い、それをおもしろがって子供が次にはわざと、祖母を「ばばあ」と呼んで受けようとする――そんな現象があちこちで起きているのではないか。

 子供は、その行いが相手にイヤな思いをさせるなどという事情を、まだよくわからないからこそ、「まわりに受ける」嬉しさだけで、そういうことをやってしまうものだ。

 「男の子」社会を十年以上生きた者としての推測であるが、「ばあば」を教わった男の子の三分の二以上が、一度はこの「ばあば」→「ばばあ」のイタズラをやると思う。

 「ばあば」という言葉が登場した理由は、たぶん「そのほうが幼児にとって言いやすい」という、子供目線の気遣いだろう。自動車→「ぶうぶ」と同じ意味合いの、おばあさん→「ばあば」。
 この場合は、「お」と「さん」という敬称の部分を、「重要ではない」と取り除いたという荒業であるが。

 開拓時代のアメリカ西部は、女の数が少ないため、非常に女性を大切にする「レディ・ファースト」だったという。
 それと同様、「呼ばれる」おばあさん側より、「呼ぶ」子供側のこころが第一にソンタクされるこうした「チルドレン・ファースト」は、少子化に関係していそうな気がする。

 むかし、家庭ではオトナが偉く、コドモは小さくなっている存在(まさに小人)だったが、いまは、中国の「一人っ子政策」→「こども=小皇帝」に近い状態に、日本もなっていて……。

 ただ、この種の呼び方が子供にありがたいのは、あの「歩行器」の有用期間くらい、短期間ではある。

 子供目線で「ばあば」という呼び方を教えるお母さんも、いつか自分が祖母になり、孫に悪意なく「ばばあ」なんて呼ばれてしまう光景を想像したなら、子供には「おばあさん」という語を刷り込んでおこうと思うかもしれない。

 一方、「ばあば」「じいじ」という呼び方のひとつ良い点は、祖父母の呼び方と、高齢の人の呼び方がくっきり区別されることである。
 「ボクのおばあさんは55歳だから、まだ全然おばあさんじゃないよ」といった、論理学の「矛盾律」に違反する(?)しゃべりが避けられる。
 もっともこちらは、そんな紛らわしさを、よもや世間話で嘆く人は出ない程度の不快感だと思うが……。


ツブヤキ(2016/8/27):
 今夏のリオ五輪で、個人的にいちばん驚いたのは、陸上男子400mリレーの日本の銀メダル。何と、大国アメリカを抑えて。

 今から30年ほど前、短距離走の世界にはカール・ルイスという大スターがおり、この人をふくむアメリカチームが、リレーでも他を寄せつけない強さを誇っていた。
 この「寄せつけない」というのは、「他国の黒人ランナーを寄せつけない」であって、わが民族は、もともと遠方から羨望鏡で見ている感じ。

 「黒人選手に筋肉をさわらせてもらうと、しなやかで柔らかくて、僕らとはそもそも質が違う感じなんだよなあ」といった選手の嘆きを聞いたこともある。

 さらには、努力ではどうにもならぬ、足の長さ自体の違い。ボルトほどのストライドではないにせよ、ルイスも細くて長い足が印象的な選手だった。

 仮に30年前の日本へ行き、街の人に「数十年後、陸上400mリレーで日本がアメリカに勝つ可能性、あると思いますか?」と尋ねたら、ほぼ全員が、馬鹿な質問のために僕や私を呼び止めないでという応答だと思う。
 遺伝子操作でもせねば不可能というのが、あのころの差の印象だった。

 それが今や、他国の失格といったハプニングと関係なく、地力で世界第2位……。
 こんな度合いの「不可能感」が数十年で克服されるなら、女子に続く男子「サッカー・ワールドカップ日本優勝」なんてのも、いつか起きてまったく不思議はないという感覚を書いてみたかった次第。


ツブヤキ(2016/7/8):
 書籍「まいど~」の昨年の記録を見ていたところ、ドイツから本書を買われた方があるようだ。どういう経緯かわからないがありがたいことである。

 物のイメージで、つい「はるばるドイツから」と思ってしまうけれども、この書籍の実体は米国のサーバ上にあるので、ドイツだと日本よりむしろ近距離購入であるのかもしれない。

 日本語が使われているウェブ・ページあるいは映像でも、その実体は米国のサーバ上にあるという場合が増えてきた。実はこのサイトもその一つである。
 日本でボタンをちょいと押すたびに、地球の裏でサッと何かが反応し、太平洋をこえて情報を送ってよこすというのは、考えてみればすごいことだと思う。

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