ツブヤキ(2016/2/11):
巨人の新監督・高橋由伸についての思い出を少々。
かつて、巨人を率いた長嶋監督が、当時の主力打者・高橋由伸に、「ウルフ」という愛称をつけたことがあった。
ゴジラ・松井秀喜と、「恐い打者コンビ」を作ろうとしたのかもしれないが、これはぜんぜん定着しなかった。彼の穏やかな雰囲気と、かけ離れていたからだろう(実は松井も、温厚なことはさておき……)。
松井秀喜→「ゴジラ」、佐々木主浩→「大魔神」といった愛称が定着したのには、二重錠前の外しにくさのような理由があったと思う。
つまり、二人ともまず外観そのものが、ゴジラと大魔神に似ている(松井の場合は多分に、あのニキビの肌の感じ)。これに加え、プレーヤーとしての彼らの印象が、この愛称に合っている。
すなわち、パワフルなホームラン打者は、怪獣王のイメージにぴったりであるし、最終盤にゆさゆさ姿を現し、圧倒的な強さで相手を片付けていく佐々木も、大魔神そっくりであった。こういう愛称こそが、定着するのだ。
ところで――外観の点で、むかし私がもう一人、「大魔神」によく似ているなぁと感じたプロ野球選手がいる。それが、高橋由伸なのである。
ただし、怒って恐い「緑顔」になった大魔神でなく、怒る前の、岩壁でおとなしくしているときの顔。
現在は、大魔神にない加齢ゆえ、ずれてきているのだが、巨人に入団したころの彼の風貌はじつに似ていた。
四角めの、色白の優しい顔で、肌がつるっとしていて(いつも何だか、松井と対比して見ていたせいもあるが)、目が細く、鼻筋が彫り物みたいにきれいに通っている。
特に、ヘルメットをかぶったときの、斜め上からのショットなど、そっくりであった。大魔神も、神なのに「防護メット」をしている。
だから、現役時代の高橋と佐々木の対決は、「変身ビフォー&アフター」の大魔神の対決みたいな感じであった。
打席で高橋が、顔の汗をウデで大きくぬぐったとたん、画面がパッと佐々木に変わるという映像があったら、実写版「大魔神」のごとしだったろう(元々、実写映画だったことはさておき)。
そういうお宝映像が偶然残っていないか、過去の野球中継録画から、最新の映像検索技術で探せないものか。
佐々木が近い将来、横浜の監督になる可能性はけっこうあると思うので、この対決の復活をちょっと期待している。
お知らせ(2016/1/12):
「まいどばかばかしいおはなし」第3巻が出ました。
今回はやや、短い話が多めになっています。
書店ページにも書きましたが、どちらかというとまず「続巻」のほうをお勧めというのがありまして、続巻二つの値段をしばし下げています。
書の表紙では、先述のように、古の日本人の「戯れ」精神に敬意を表し、当面、この偉大な古典スターたちに活躍してもらう予定です。いずれ少し、役者が増えると思いますが。
表紙の絵について、少々――。
以前、歌舞伎のことを、日本が世界に誇る「芸術」だとずばり書いている文章があり、「???――しかし、まちがいだとも、言えないか……」と考えてしまったことがあります。
しばしば起源解説されているように、「歌舞伎」という演劇名は、奇抜な格好をしたり、おかしな行いをする意の言葉「かぶく」に発し、元来まさに、そうした性格のものでありました。
まっすぐ立っているものに対して、傾いたもの。遊び。
かつて、先代市川猿之助(香川照之のお父さん)が、天井から宙吊りになる「宙乗り」などいろいろ派手な演出を導入したとき、それを「ふざけすぎ」「歌舞伎を冒涜している」と非難する人がありました。
しかし、これは、「お笑いタレントなのに、冗談を言っている。けしからん」と非難するくらい、おかしな話に思われるのです(そもそも、宙乗りの起源をたどると、團十郎というすごいところへ達するようだ)。
「逸脱」のおもしろさを起点にしたものが、やがて芸術へ祭り上げられ、それを誰かが芸術と感じることにむろん問題はないけれど、ややもすると、そこからの逸脱が厳しく非難されるようなガチガチの何かになってしまう。
文字どおり突飛な「宙乗り」が、そのあと、歌舞伎界で消えるどころか一般化したのを見て、「かぶき」の伝統は今もちゃんと生きているのだと、逆に思ったりもしましたが。
「戯れ画」と呼称されながら、国宝という冠がつけられた鳥獣戯画にもまた、同じような印象を受けることがあります。
この冠ゆえ、何か、絵じたいがアンタッチャブルなものになりつつある。
描かれた当時、この絵は国宝扱いされるような何かでは絶対にありませんでした。高尚な仏画の、きっかり対極にあるような絵です。
後年、国宝に指定されたのは価値からして当然とはいえ(日本が世界に誇るマンガの源流でもある)、そうであればなおのこと、一方でその内容はイタズラでぐらぐらさせたほうが、動物たちが原初どおり戯れ、呼吸をするように思われます。
ぱっと見て、怒る人がもしやあるかもしれない「まいど~」の表紙は、いわば、猿之助の宙乗りみたいなものであります。
(西洋では、宗教画までがお遊び、パロディに使われ、さすがに、あれはいいのかいなと思うときもあるけれど……)
ツブヤキ(2015/12/12):
最近、手持ちの古い音楽CDで、どの機械でも再生に問題が出るものが数枚見つかり、よく耳にする「CDは必ずしも長寿命ではない」という話を実感している。
それなりにていねいに扱ってきたので、ディスクの表面は無キズで実に美しい(のが逆に虚しい)。安物でなく、どれも日本のメジャーな会社製のCDだったことも少々ショックであった。
製造後20年といったディスクには、アルミ膜(データ記録部)とプラスチック板が剥離しているものがある――中古CDを扱う店の人が、そんなことを話していた。使ったがゆえの消耗ではない、おもに時間経過による劣化だろう。
もちろん、そんなのは割合的には「まれ」なのだと思うが、時間というのは10年くらいすぐ経つ油断ならぬものゆえ、今後その割合がどうなるのかということは気になる。
常に市場流通しているならまだしも、この世界は廃盤というのが多い。音源のクラウド化は進んでいくであろうが、そうした古い音源がみな復活するとはかぎらないのだ。
ひと世代前のメディア、「レコード」の場合、20年程度の時の流れでガリッというノイズが現れ出すとか、音が跳ぶといったことは、どれほど安いレコードでも起きなかった。100年くらい、そこそこ湿度や寒暖変化がある所に放置しておいても、音は切れなくきっちり鳴るだろう。
初期のCDには、「(レコードと違って)コンパクト・ディスクは良い音が半永久的に楽しめます」という謳い文句が書いてあったが、あの言葉は、むしろレコードのジャケットに付したほうがふさわしかった気がする。
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