むしろ、なぜこの大差をすっかり「忘れて」いたのか?
上のこととは別に、鷲田氏のコラムを読んで私がちょっとびっくりしたのは、米国人選手に比べて日本人選手が「投」にネックを持つという感じを、自分が長いあいだ忘れていた――昔ははっきりそう認識していた――事実であった。
これは私だけでなく、少なからぬ日本のオールド野球ファンにあてはまることではないかと思う。
というのも……。
野茂投手がアメリカで活躍する前から、「大リーグ」(当時はメジャーなんて呼ばなかった)のプレーは、日本のテレビでしばしば放映されていた。
それを見て、「そもそも体のデキが違うんじゃないか?」と強く印象づけられたのは、あちらの内野手が、捕球後のとんでもなく崩れた体勢から、手首のスナップだけで一塁へ矢のような送球をするさまであった。
やっていることの質が格段にちがう感じで、ああいう映像だけが得る情報のすべてだったら、日本人の内野手が、これほど次々にメジャーを目指すなんてことは起きなかったかもしれない。
しかし、そんな「投」に関する、私たちの「こりゃ、かないません」感の、ドテッパラに風穴を開けるできごとがその後起きる。
まずは、多くの日本人選手のメジャー挑戦の道を切り開いた、野茂英雄である。
野茂といえば、落ちる球、フォークのイメージが強いが、球威が無い「かわす」タイプのピッチャーではなく、速球でもメジャーの打者に立ち向かえる力をもっていた。佐々木主浩もまた同様であった。おっ、うちの民族もやるぞ……。
そして何といっても極めつけは、かの有名な、イチローの「ザ・スロー」である。
ライトのイチローの前へ飛んだヒットで、一塁ランナーが一気に三塁をねらったのを、ノーバウンド、一直線の送球により三塁でゆうゆう刺殺したプレーだ。
メジャーの試合をつねづね見ている米国人アナウンサーが、「レーザー光線でストライクだ!」「何というスローだ!」と叫び、「パーフェクト」という単語を3回も重ねたあのシーンは、日本のテレビのニュースや一般番組で、くり返し放送された。
わが国の、「矢のような」という表現どころではない。みじんも落下しない「光線」である。
日本人の野球選手は、肩の強さでとうてい太刀打ちできないという印象は、あのプレーの、各テレビ局でのジュウタン爆撃みたいなリピート放映以降、日本列島で死滅したように思う。
その後も、球の威力の点でアメリカでもパワー・ピッチャーと見なされるような日本人投手が、次々登場する。
あるいは、日本の高校生投手が、スピードガン計測で160キロを出しちゃったなどというニュースが報じられる。
日本のトップ選手の「投」のレベルは、アメリカの選手を「微妙に」下回るくらいかな――いまの私たちの一般的な認識は、たとえばそんな感じではないだろうか。
ところが、「内野手」における投の隔絶的な差は、何十年前と変わらず、いまも存在していたのだった。
むかしはその差がはっきり意識されていたけれど、イチローの肩や、あのアナウンサーの賞賛ぶりの印象があまりに強烈だったので、外野手にかぎった話でなくもう全般的に、日米、肩を並べた気分になってしまっていた。
しかし、「肩全般」が並んでいたわけでは、まったくなかったのだ。
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