フレディが「英領ザンジバル生まれ」であるという情報は、すでにデビューアルバムの日本語ライナーノーツに書かれていた。
しかし、そのあとに「おぼっちゃま育ち」を想像させる記述が続いており、「いわゆる帰国子女かな」「親の仕事の関係だろう」といった印象。
ルックスに関しては今回の映画で、「歯が出ている」点がフレディの容貌の欠点として強調されていたけれど、この人は目鼻立ちを見るなら他の3人以上に彫りが深く、恐いほどの美男子ではないか(シャドウのある顔写真など特に)。
私は男ゆえクイーンの容貌は女子ファンほど重要でなく、もっぱら特殊な音世界に吸引されたのだったが(とりわけ、QUEEN IIのサイド・ブラックは奇跡のようなきらびやかさ)、どこか貴族的な印象のある音楽に、4人の美形ぶりが価値を添えていることはまちがいなかった。
あとで重要になるので、フレディが亡くなったのち初めて広く伝えられるようになった情報を、少し詳しく書くことにしたい。
フレディ(出生名:ファルーク・バルサラ)の家族は、ゾロアスター教を信仰する「パールシー」に属している。
パールシーは「ペルシャ」と同源の言葉で、いまから千年以上前に、イスラム教が支配拡大するペルシャからインドへ脱出した人々だ。
インドはヒンズー教徒の国であるから、むろんそこでも宗教(&民族)的にはマイノリティということになる。
同胞の突然の虐殺も経験して
フレディが生まれてから英国へ渡るまでを追ってみる。
出生地は、アフリカ大陸の南東部にある島、ザンジバル(現タンザニア内)。
ヨーロッパの北西に位置する英国からは、非常に遠いところに位置している。
両親は、フレディが8歳のとき(本人は7歳と記憶していたようだが)、彼を遠く離れたインドの学校へ入れてしまう。当時、60日くらいかかる船旅だったという。
日本であれば、ようやく小学生になったくらいの子供を、両親から離し遠い異国で生活させるなぞというのは、一種の精神的虐待ととらえられるだろう。
両親とのこの別れ(子供に良い教育を受けさせたいという愛情からだったにしても)は、後述のように彼の心に深い傷と、両親との距離感を残した。フレディはそのまま10年近く、インドで青春時代を送ることになる。
スポーツに熱中したりしたものの、叔母さんの証言によるとフレディはインド生活を好んでいなかったという。
彼は1963年にザンジバルへ戻り、ふたたび家族と暮らし始める。
ところが翌年、ザンジバルで、支配されていた黒人による革命が勃発し、アラブ人/インド人が大量虐殺され(「さらばアフリカ」というドキュメンタリー映画がこの恐ろしい光景を実録している)、まさに当事者であるフレディ&バルサラ家は、難を逃れて英国へ脱出した。
英国にあっても、フレディの立場はやはりマイノリティである。
映画では、彼が空港で荷物係として働いている際、あるいはバンドで前任者の代わりにボーカリストとしてステージに立った際に、差別的な扱いをされる光景が描かれていた。
後者は特に侮蔑的な光景だったが、こういうことは実際にあったらしい。
ブライアン・メイはBBCが制作した番組で、初めて会ったころのフレディについて、「自らの肌のこと、歯のことを気にしている内気な少年(shy boy)だった」と話している。
クイーンの写真や映像をたくさん見るうち、私はフレディの肌の色が他の3人よりやや濃いことに気づいたが、しかし、日本人の色白の人⇔色黒の人の差より、差は小さいぞと感じずにおれない。
それでもあちらの人は、微妙な肌の色の違いをとらえ、相手をあっさり「白人でない」と表現するものである。
クイーンのインディアンの歌
英国のジャーナリストが書いた、「フレディ・マーキュリー 孤独な道化」という伝記がある(「孤独な道化」は、訳書を出した日本の出版社が加えた副題)。
フレディが亡くなったのは1991年であるが、その後も伝記の内容が増えつづける人物なので、この本は1997年に出たあと、2011年に書き替えられ、今回の映画の大ヒットを受けてまた書き替えられた(ひょっとしたら、将来さらに……)。
著者はこの本で、フレディを非白人ととらえつつ、彼を英国初のアジア人ポップスターと呼ぶ人がいるが誤りで、アフリカ人であると述べている。ここを読んで、私は何重にもギョッとした。
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