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 「ムラ社会」、そのなかでの同調圧力といったことは、日本で日本に関してよく言われることである。変わったことをやり始める者は、周りから強い抵抗を受ける。
 たしかにそれは、島国であり内部の均一性が高めな日本で顕著なことではあろう。

 しかし、「二刀流」をめぐる米メジャーリーグのありようや、ジャズ、あるいはブラジル/イタリアサッカーの状況などをながめると、実際はどこの民族にも似た感覚があることを感じる。

 ムラ内でならわしから外れるやつが出ることは、基本的に腹立つというか、あるいは腹が立たない場合の条件というか。
 日本がむしろ、変革の点で世界をリードしている分野もけっこうある。

 ジャズ界の黒人のレジェンド(男)たちと、「おやじ」という属性を少なくとも共有する者として、想像することがある。

 そうした「ビッグ」ミュージシャンが、まだ世に広く知られていない段階の日本の女性ピアニストと、ちょくちょく共演する。
 そこには、相手が実力十分なことはむろん前提だけども、他民族の女の子が自分たちの音楽に熱く向かってくれてうれしい、みたいな感覚もあるのじゃないか。

 日本のおじさんが、お琴の演奏になぜか熱く向かう外国女子を見る感じ。同民族の場合より、ちょっと応援心が増す。

 読まれている方がおばさんの場合は、たとえば外国の男の子がけんめいに弓道に打ちこむ光景を想像してほしい。アーチェリーじゃなく、あえて弓道をやっているさま。
 若い人の場合は、30年くらい経ったあとに、この文章を思い出して想像してほしい。きっと上の感情の存在に同意するだろう。


 さて最後は、異文化の極みともいうべき存在に関する、おまけのような話である。
 「異文化の極み」というのは、ここではむろん、悪魔(文化)を意味している。あえて意図したわけではないが、今回の話もラストは「徹子の部屋」に関係している。

いちど、世を忍ぶ仮の姿で出てほしい

 デーモン閣下の、素顔(というか、人間姿)の写真が、いまの時代ゆえ、ネット上にたくさんアップされている。
 早稲田大学時代は、そうした姿のままテレビ出演もしていたようだ。

 仮面を付けたり外したりといった変化でなく、肌の色が違っているだけだから、そのような写真を見てもあまり驚きはない。なるほど、くらいの感じである。

 いまは、そんなふうに特に秘密感なき状況になっているので、「徹子の部屋」のようなトーク番組に、閣下はいちど人間の姿で出演してほしいものだ。
 そうした姿ゆえ、話しかたも「いま思い返すと、黒柳さんの『ザ・ベストテン』、もっと出させていただきたかったですよ」みたいな感じか。

 「悪魔が、人間を一時的に演じてやる。フヘハハハハ……」ということであれば、まったくイメージダウンにはならないのではないか。悪魔のイメージダウンといったことを気遣うのは変だけども。

 これほど長く、テレビで悪魔として活躍したあとで、とつぜんそうしたことをやるのは、前代未聞のふしぎなギャグにもなると思う。
 「じつは、初めてNHKの相撲中継に出たときばかりは、敬語で話すかどうか迷いましたよ」みたいな、思い出話を聞きたい。

 人間の姿で自身のヒット曲(「蝋人形の館」とか)や、得意の「マイウェイ」を披露してもらうのも新鮮である。
 むかし東宝のコンテストで優勝したという、ゴジラの声マネも、シン・ゴジラのヒットがあったから、再びやることがタイムリーな状況になっている。

 実は、悪魔である閣下が、「人生の終わりが近づいたが、私に悔いはない」(マイウェイ)と歌ったり、本腰で怪獣の鳴きマネをする姿を見るたび、あれはイメージダウンではないのかと懸念していた。
 人間の姿なら、そうした違和感はすっきりなくなる。

 まあ、閣下はやらんだろうなあ。
(世を忍ぶ仮の姿の年齢では、私のほうが一つ上なのに、閣下と呼ばねばならないのはくやしい)

 ついでながら――。

 今回の話でふれた黒柳徹子&ローラ両氏は、いずれも東京お台場にある「マダム・タッソー東京」で、蝋人形になっている。
 もしこの人たちが、デーモン閣下に「お前も蝋人形にしてやろうか?」と脅されたら、「もうなってるから、けっこうよ」と返せばよいであろう。

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