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ムラ内とちがう外観をもった、タメ口の先人

 顔のつくりは100%日本人なのに、芸能界にあって、「新人がタメ口で話す」ことへの反発心をたくみに(悪魔の狡猾さで)消したのが、デーモン小暮であった。
 いまは、デーモン閣下と呼ばねばいかんのだったか。当初から「偉そうキャラ」で登場したというのに、そこからさらに偉くなっていくなあ。

 閣下はいわば、「昭和のローラ」であった。
 芸能界に登場したのは、もう30年以上前になろうけど、あの外観じたいは、すでに米国にKISSという地獄の使者メイクの有名バンドがいたこともあって、すごく衝撃的というわけではなかった。

 驚いたのはデーモン小暮(当時)が、テレビで諸先輩タレントに、すべてタメ口で話し通したことである。
 あの人にもやるのか、この人にまでやるのか、と思っているうち、全タレントがこれを認める状況となった。

 芸能界は、いつこの世界に入ったという先輩-後輩の関係性や、ちゃんと先輩にあいさつに伺う等々が、一般社会よりずっときびしいと言われる。
 仮にデーモン小暮が、悪魔という設定(または事実)は同じでも、素顔(または人間の姿)のままタメ口で話したら、周囲の先輩たちは許さなかったと思う。

 大御所は、若い新人(に見える存在)にタメ口で話され、自分の格が下がる感じになる「絵」を、嫌っただろう。
 昭和はユルい時代だったという思い出話を、私は何度か書いてきたが、「長幼の序」みたいな部分は、いまよりむしろ堅かったのだ。

 そのあたり、みんなが心理的に何だかごまかされた理由は、あの全身の悪魔姿だったにちがいない。
 このはっきりした「異物」性は、ふつうの新人⇔大御所のタメ会話とは、絵的にぜんぜん違う雰囲気を生む。

 異国ふうの顔立ちどころか、顔の色が白+黒+赤で、頭には鬼以上に派手なツノ的なものがあるのだ。
 このヴィジュアルが大御所たちの心に、「別枠」感を忍びこますスキを生んだことはまちがいない。

 もちろんあの姿は、彼は一つの「設定」としてこれをやっているのだ、お芝居的にその設定にのってやろうといった感覚も、生んだかもしれない。テレビの世界であるから。

 しかし、相手が「あるキャラクター」を演じているのだと感じる、そのことだけで、人はなかなか無差別のタメ口など許容しないものである。
 この点は、このあとに書く例によく現れていると思う。単純に視覚的に「違う」ことは、ムラの掟やぶりが許容される上でやはり大きいのである。

 デーモン小暮と共演し、そのタメ口をとがめなかった先輩のなかには、「タメ口をよせ!」と言って相手が本当に悪魔だったとき、蝋人形にされてはたまらんと思った人も、少しはいたろう。

 上の文で、「悪魔という設定(または事実)」だとか、「素顔(または人間の姿)」だとか、いちいちカッコ書きを付したのは、公の場でうかつに「あんなの明らかにメイクだ」などと断じて、私も蝋人形にされては困るためである。

 全身がロウになって、頭に火をつけられ、ゴジラのSMプレイなんかに使われたら最低の身の果てかただ。真実は「神とデーモンのみぞ知る」であります。

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