山崎ハコは実のところ、慢性膵炎のため、若いころからアルコール類はダメであるという(飲んだことが無いわけではないようだけれど)。
自分が近づけないモノだからかえって、他者が豪快に酒を飲んで騒いだり、それで憂さ晴らしをするさまにひかれ、詞に酒を登場さすところがあったのかもしれない。
この人の歌は、基本的にはどれも豊かな文学的イマジネーションの産物なのだと思う。
当時、フォークソングの歌詞と酒は、落語家と扇子の関係のように、「付きもの」でもあった(この点、後ほどまたふれたい)。
そういうわけで、先ほどの、隣席で酒のにおいを発している女子高生の話も、おそらく現実の光景ではないと安心していただきたい。
もっとも、安酒&おふとん物語のノートのほうは、実在したかもしれないが……。
山崎ハコは18歳で芸能界に入ったのち、ずっと外との接触が少なかったので、40歳くらいで事務所が倒産するまで「印税」というものを知らず(知らされず)、同世代OL程度の給与だけを受けていたという。
社長が彼女に、近親者との絶縁をせまったのは、そのあたり常識がインプットされるのを避ける目的もあったのかも。
そのため、事務所がとつぜん倒産し、社長がゆくえをくらましたあとは、ホームレスに近い極貧状態へ陥ってしまう。
自分が作った曲の権利もいっさい持っておらず、中華料理屋で食器洗いをするなどして、しばらく生活したそうだ。
先ほどふれた曲「縁 -えにし-」は、そのとき救いの手をさしのべた、俳優の原田芳雄が亡くなったときに作られた曲である。
(話の中途ながら書くと、今回の文章は上記の曲のタイトルをお借りして、少なからぬ数の人々の、ある関係性について書こうとするものである。
終盤には、この糸はそうとう意外な人物まで達することになるだろう。)
壮大なブーメラン
話を、1970年ごろへ(そして現在の海外人気へ)もどす。
山崎ハコは中学時代、エリック・クラプトンやスティービー・ワンダーといった英米ミュージシャンが好きで、兄のエレキギターをこっそり借りて弾いたりもしていたという。
クラプトンは「米国の黒人ブルース・命」といった音楽的出自をもつ人であり、スティービー・ワンダーは、米国ソウル、リズム&ブルース界の巨人中の巨人。
必ずしも自覚的でなかったのかもしれないが、山崎ハコには間接的、直接的に、米国の黒人音楽の王道が流れ込んでいるのだと思う。
アルバム「飛・び・ま・す」で、こうしたフィーリングを最も感じさせるのは、2曲めの「さすらい」。
うたも、曲も、詞も、すべてが同時に激しく高校生ばなれしている作品。ぜひいちど聞いて、びっくりしていただきたい。
冒頭で、山崎ハコが「サウンド」だけで欧米の人たちを魅了していることを、意外だったと書いた。
しかし、もともと米国由来の音楽が、英国ミュージシャンを経由して、あるいは直接的にこの人へ降りそそぎ、それがいまブーメランのように返っているととらえれば、さほどふしぎではない気もしてくるのである。
当時の日本の音楽界の流れもあり、「フォーク」歌手になったと思うのだが、独特の深みがある声や、自在な歌いまわしを聞いていて、山崎ハコに最もフィットするジャンルはブルースではないかと感じることがある。
もちろんこれは、「伊勢佐木町ブルース」みたいな意味ではなく(ああいうのも、ひょっとしたらすごく上手いのかもしれないが)、本場のあれのことである。
宇多田ヒカルが、かつて15歳くらいで世に広く知られる存在になったとき、私がちょっと連想した人物は山崎ハコであった。
つくる曲のタイプはぜんぜん違うのだが、作品の完成度と年齢のギャップの異常さや、黒人系音楽に共鳴をもつ点でよく似ていた。
あるいは山崎ハコは、宇多田ヒカルおよびその母(藤圭子)と、それぞれ違った意味で何だか似ている。
英米ではいま、青い目の有志たちにより(いや、黒人系の人も混じっているかも)、山崎ハコの歌詞を英訳するとりくみが、かなりのスピードで進行しているようだ。
「人間まがい」がHuman Nature(人間性)と訳されているのを見ると、まだまだだなと思うが、国を問わずマニアは他者のまちがい指摘に情熱をいだくので、いずれツッコミが入って正されていくことだろう。
特に衝撃的だったようであるファーストアルバム(年齢との対比ゆえか)の、有志による内容紹介が進むにつれ、地球の裏で急速に、「日本では飲酒が17、18から可能らしい」という認識がひろがっていくにちがいない。
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