当初の「必殺~」は、このように迫力第一志向だったのだが、シリーズの人気が下がり、関東では放送するチャンネルがTBSから地味なNETに変わったりしたあと、なんと、藤田まことが番組の中心人物にすえられたのである。
この人はそれまでもシリーズに出ていたが、「芯の人」ではなく、脇からコミカルな味を加える、水戸黄門でいえば「うっかり八兵衛」的意味合いだったと思う。
「必殺」以前の、藤田まことの一般イメージといえば、ピュアに「コメディアン」であった。
この時代劇の前に彼が主演していた、「てなもんや三度笠」という人気コメディ番組を祖母が好きで、私も見ていたが、毎回、「馬づら」ぶりを周囲にイジられ、笑いをとっているさまは、暗殺ものの主役イメージとは百万光年離れていた。
ところがこの起用が、結果として大成功だったのである。
だいたい、悪い連中が毎回出てきて、見るこちらの怒りをかき立てるようなことをし、斬られたり刺されたり、細糸で吊るされたりして終わるといったドラマは、それだけだと殺伐とした印象になりかねない(というか、もともと殺伐そのものだ)。そこにはユーモラスな要素が、どうしたって欲せられる。
そうした笑いを脇役に担わせるのでなく、著名コメディアンを時代劇の主役にし、そこで初めて見せるシリアスな表情も新鮮、といったありようは、コロンブスの卵というか、ドラマ配役の新世界開拓だったと思う。
そうしたことを思い出すと、これに似た様式性をもつ懲悪ドラマ、「水戸黄門」の主役に、コミカルな持ち味の武田鉄矢を起用というのは、意外は意外ながら、お仕置界必殺の、奥義伝承のようにも感じられてくるのである。
今までと似たタイプの俳優で黄門シリーズが再開されるなら、私は「へえ」と思うだけで、実際には見ない気がするが、武田・黄門となればちょっと変わってくる。
この番組には、視聴者みなが待っているセリフ、「ひかえおろう。こちらにおわすお方をどなたと心得る!」「恐れ多くも……水戸光圀公にあらせられるぞ!」というのがあるが、この紹介のあとの顔のアップで、武田鉄矢がどのような表情をするだろうかと想像すると、初回はぜひ録画しようという気持ちが膨れあがってくる。
TBSの思うツボに、体が、ずりずり引きこまれるのを感じる。
時代劇が全体的に退潮し、視聴者が減って前「水戸黄門」は終了したわけだから、再び立ち上げるにはたしかにこのくらいのインパクトは要るだろう。
TBSにあって武田鉄矢は、「3年B組金八先生」というヒットシリーズを生んだエースでもあり、こんどの起用は、金八先生→水戸黄門という、「かつての中学生→現在のおじさんおばさん」のファン継承を図ったものでもあるに違いない。
金→黄は、色の点ではキラキラ消失なれど、威光のほうは格段にアップだ。
武田鉄矢という人は、「母に捧げるバラード」、「幸福の黄色いハンカチ」で名を轟かせて以来、金八先生だけでなく、先述の「僕は死にましぇん!」(流行語大賞に輝き、後年、かぎりなくパロディにされた)だとか、ドラえもん界での活躍だとか、「赤いきつねと緑のたぬき」だとか、時代時代で強いインパクトを残してきた人物である。
そうした芸能史をふりかえると、新「水戸黄門」は広範な世代をひきつける可能性を秘めていると思う。
インパクト強烈に決まっている初放送は、BSより、「地上波でいきなりガツン」のほうがよかったのではないかという気さえする。
いっそ、放送時間を金曜の8時にして、「金八は水戸黄門!」というコピーで宣伝したらどうか。
主人公の名前を、金曜8時にやるから「金八先生」にしたというのは、当時は「何と安易な」と感じたが、勝てば官軍、いまや味わいのある名前と化している。
春の訪れとともに報じられた「武田黄門」ニュースに、ときめきを覚えている人物に、三又又三がいるのではないか。
金八先生のマネはもはや古のものになってしまったが、武田黄門が人気をえて地上波進出したりしたら、この人にふたたび「特需」がやってくるのはまちがいないのである。
寄らば大樹の陰というけれども、似る対象として、武田鉄矢というタレントは優れているなあ。
余談:
光圀が日本各地を漫遊したというのは、もともと作り話である。同様に、先ほどふれた「忠臣蔵」も、これじたいはお芝居だから当然であるが、作り話を多くふくんでいる。
浅野のお殿様が吉良上野介に怒りをつのらせ、斬りつけた理由も、実際はよくわかっておらず、想像/創造でお話がつくられている。
そのあたりをふまえ、突然で恐縮だけども、私はここで赤穂浪士について大胆な説を世に問うことにしたい(予め断っておくと、まじめにとらないでください)。
名づけて、「大石内蔵助=所ジョージ」説というものである。
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