お仕置界の奥義伝承か
(2017/4/17)
先日ここで、かつての人気長寿ドラマ、「水戸黄門」がらみのことを書いたら、少しあとに何と、TBS(BS)がこのドラマを復活させるという報があった。
いや、驚いたのはむしろ、黄門役の人選のほうである。
この役には、当然ながら貫禄や重々しさが必要なシーンがあるから、今までは、しぶい名優や二枚目俳優(直近の石坂浩二、里見浩太朗)がこの役を演じてきた。
ところが今度の黄門様は、武田鉄矢だという。
武田鉄矢は、喜劇世界へ入っても成功しそうなコミカルな芝居がうまい人で、逆に、重々しさとは対極にあるようなタレントである。「二」ではなく「三」のラインの人といえる(三又又三がよくマネをしていた印象のせいもあるが)。
そもそも、役柄が何かという以前に、里見浩太朗がやっていた役を、武田鉄矢が引き継ぐという事実がすごいと思った。
水戸黄門と武田鉄矢の共通点といえば、黄門様も神様のような絶対的存在ゆえ、どんな危険にさらされても、ドラマのなかで「死にましぇん!」ということくらいだろう(あっ、これは放送局が違うな)。
ところで――。
「水戸黄門」同様、やはり何十年にもわたって人気を博した、TV時代劇の別のヒット作に、「必殺シリーズ」というのがあった(単発ドラマとしては今も作られている)。必殺仕掛人、必殺仕置人、必殺仕事人、必殺仕業人……といったもの。
「水戸黄門」も「必殺シリーズ」も、番組の終わり5分前くらいに、定まった形――時をへて黄金化したマンネリ――で悪者が成敗される。
黄門様の場合は、徳川幕府の威光による、トップダウン型のお仕置であるのに対し、「必殺~」の場合は、市井の殺し屋による、草の根型のお仕置である。
江戸の地にある東京放送が、「お上」によるお仕置ドラマを制作し、大阪の朝日放送が、「庶民」によるお仕置ドラマを制作しているのは、「らしい」といえば「らしい」。
まあ、撮影じたいは、どちらも時代劇の聖地、京都・太秦(うずまさ)でやっているのだが。
太秦という地名を聞いたとたん、すぐに丁髷(ちょんまげ)がイメージされる人は、いまどのくらいいるのだろう?
前にここで、日本映画(特に時代劇)の海外進出が華々しかったころ作られた娯楽傑作、「大魔神」のことを書いた。
私はじつは、「大魔神」、「水戸黄門」、「必殺シリーズ」という三つの大ヒット作品を、太秦が生んだ、「大魔神三兄弟」のごとく感じているのである(生まれた時期は、「大魔神」の3年後に、「水戸黄門」シリーズが始まり、その3年後に「必殺」シリーズが始まったという関係。ただし、親は大映、東映、松竹とバラバラ)。
すなわち、いずれの作品にあっても、主人公――大魔神、水戸黄門、中村主水――は、性格が正反対な「二つの顔」をもっている。
そして、ドラマが終盤に至ると、恐いほうの顔を突然あらわにし、絶対的な強さで悪者を成敗するのだ。
(この意味では、主人公が初め軽んじられている「座頭市」あたりも親戚筋)。
ただの好々爺と映っていた、越後のちりめん問屋の隠居、「光右衛門」の裏の顔は、徳川光圀。
「裏の顔が徳川光圀」という言い方は変だが、徳川光圀の裏の顔がちりめん問屋という言い方はもっと変なので、このように書いておきたい。
自分の腕ならぬ、お付きの腕がググッと印籠を取り出すと、だしぬけに恐れ多い存在に変わる。
必殺シリーズの要、中村主水の「表の顔」は、奉行所の同心である。すなわち江戸時代の警察官で、犯罪をとりしまる存在なのだが、その人物が、裏で金をもらって殺しをしているという、これも著しい顔の落差。
同心としての中村主水は、作中で「昼あんどん」――無価値、ぼうっとした人物のたとえ――と馬鹿にされていた。
なめられていた存在が、いざというときキリリとして事をなす――こうしたイメージ急変に私たちが魅力を感じるルーツは、元祖「昼あんどん」、忠臣蔵の大石内蔵助あたりにあるのではないか。
さて、こんど再出発する「水戸黄門」で、主役が里見浩太朗から武田鉄矢へ引きつがれるという話を聞いたとき、私の頭をよぎったのはこの「必殺シリーズ」のことであった。
このドラマは初めの数年は、緒形拳だとか、山崎努だとか、「必殺」にふさわしい、いかにも凄みのある俳優を主役にしていた。
山崎努といえば、「必殺仕置人」の少しあとに映画「八つ墓村」で演じた、ツノのようにライトを二つ頭につけて暴れまくる、恐すぎる殺人鬼の姿がトラウマになっている年配者もあるだろう。
この名優は平成になって、米アカデミー賞まで受賞した映画「おくりびと」で、ベテランおくりびとを演じていたが、昭和の「必殺仕置人」「八つ墓村」でも、出世作「天国と地獄」(黒澤明)でも、じつは最初から強烈な「おくりびと」だったのだ……。
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