情報が地球のすみずみへ簡単に伝わる現代にあって、こうした映像は、日本だけでなく、世界中の人々へある「印象」をもたらしたことだろう。
もちろん、女性トップが三人でなく「二人」でも、前例なき話ではあるが、男女構成が「ほぼ半々」だとか、「世界一の経済大国、米国をふくめ」というのは、やはり特別なインパクトがある。
それは、状況が極端にちがっている国、場所ほど、より強烈であるかもしれない。そうした場所として、私が思い浮かべるのは、たとえば――。
アフガニスタンの、パーミアンにある巨大石仏(あの三蔵法師もここを訪れたという遺跡)を、今世紀初めに砲撃で消滅させてしまった、タリバン(ターリバーン)というイスラム武装勢力がある。
彼らは、「女に教育は不要」という考えをもっているのだが、その主張は男権主義などというレベルを、はるかに超えている。
すなわち、「そんな時間があったら別のことをせよ」といった発想ではなしに、女に教育を「与えてはならない」と考え、与えようとする者を次々に殺していくのである。
まさに、そうした推進活動をしたためパキスタン・タリバンに銃撃され、頭に被弾してもひるまなかった女性が、おととし17歳でノーベル平和賞を受けるというできごとがあった。
彼らがあんなにも神経質に、推進者たちを殺そうとするのは、自らの感覚でそれが「ルール違反」だという以上に、その動き(教育によって権利に目覚めたりする)が、自分たちの体制を根っこからこわす怖さを感じるためだろう。
そうした社会で、人々がたとえば上記の「記念写真」を見て、「あっちでは教育の平等どころか、トップ層がほぼ半々になっているんだ!」とびっくり仰天することは、ただ「あっちは違うんだ」で終わらず、体制をジワジワ変化させる可能性をはらんでいる。
こうした武装勢力に対し、先進国は「外から」、あるいは「上から」(政治的、爆撃的に)、北風を吹きつけるように圧力をかけているのだが、上記のようなできごとは、これを「内部から」、「土台から」、変化させるタイプの影響をもつかもしれない。
幻に終わった例の写真を、私がちょっと見たいと思った理由が、まずは、「サミット恒例のショットが、がらり華やかに変わるだろう」という、政治の本質とぜんぜん関係ないものであったことは、恐縮である。
しかし、上のような種々のことを考えてくると、この「単なる記念写真」(私の想像のなかでは、三人が赤い服を着ている)は、政治の実質や全世界のなりゆきと、必ずしも無関係でなかったろうとも感じるのである。
メイ首相は、選べる方向のなかでどのように舵を切っても、成功は難しそうな航海に乗り出している。
単独でおそろしく強かった大英帝国艦隊は、今は昔の話だ。
メルケル首相も、四選をめざす意志を表明したが、難民受け入れによる支持率低下で、これまでにない厳しい選挙になりそうである。
考えてみればドイツは、かつてはヒットラーのような「純血」至上の考えが、支配的になった国でもあった。
来年以後のサミットの記念撮影は、ふたたび黒一色へ戻る可能性もあるだろう(トランプ氏の存在が、不確定要素ではあるが)。
そうした状況ゆえ、一時は「80%くらいの確率」で来年見ると想像したあの映像は、当面、目にすることがない、あるいは私の目の黒いうちには目にできぬかもしれない何かとの、ほんとうに僅差のニアミスであった気がしている。
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