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 さて、本題はこのピースではなくて、「チーズ」である。もちろん、写真を撮るときのあの「チーズ」だ。

 英米の人々は、ふだん互いに「にっこり」を交わす文化を持っていて、私たちよりはるかに微笑みを作ることに慣れていると思うが、それでも”Say cheese!”といった工夫を編み出しているのを見ると、シャッターの待ち受けはどこでもやっぱり難しいのだということがわかる。

 ところが、シャッターの際に良き表情を作ろうとするこの「チーズ」の輸入が、日本で、とんでもない産物を生み出すことになっている。

 「なぜ写真をとるとき、チーズなの?」――「日本人は、なぜそこでピースなの?」という疑問と、方向が逆といえようが、子供のころ、そういうハテナマークが心をよぎった人は多いのではないか。わざわざ理由を尋ねようと思うほど、知りたいことではないにしても。私もその一人だ。

 「写真撮影」と「チーズ」という取り合わせが、まずは妙である。

 かつて渥美清が、カメラに向かって「チーズ」のかわりに「バター」と口にするボケを映画中でやっていたが(その源流は笠智衆)、これを「チーズが正しい!」と断固正したなら、それ自体がボケに見えかねないほど、元の「チーズ」にぜんぜん意味が感じられない。

 それとともに、もう一つ妙に思われるのは、撮影者が皆に「チ~ズ」と言わせておいて、「ズ」のタイミングでシャッターを切ることである。

 これにそのまま従うと、口を「ウ」にとがらせた、いわゆるひょっとこ顔が写真に並ぶことになるではないか。

 習慣には必ずしも、合理的理由などないものだ――そう片づけて、私もそれ以後は何も考えず、チーズを口にして写真を撮ったり撮られたりするようになって行ったのだが、のちに、この習慣が合理的理由だらけであるのを知ることになった。

 それは、初めて舶来の” Cheese”にふれたときなのである。

 アメリカ人のカメラマンの前で、こっちにも大勢アメリカ人がいて、写真に写る機会があった。そこでまさにこの、”Say cheese!”の声かけがなされたのだ。

 となりのアメリカ人がけっこう大声で”Cheese”と言うさまに、本場ものに接した感動をちょっと抱きつつ写ったのだが、より心が動かされたのは、できた写真で、そのアメリカ人がきわめて自然な笑顔で写っていたことであった。

 英語の「イ」音というのは、日本語の「イ」に比べ、唇をかなり左右に引っ張る音である。私たちが子供のころ、友だちなんかに「イーだ!」とやる、あの口の形に近い。

 そうした”Chee”のあとの、”se”はただの子音で、「イー」の唇からやや力を抜くとともに、口を閉じるという感じである。

 これはまさに微笑みの口の形だ。

 すなわち、”Cheese”という単語は、子供もよく知っているような単語のなかから、「微笑み顔」へ、ぴたり照準を合わせて選ばれた語なのであろう。

 この工夫がうまくできているのは、口の形を微笑みへ持っていくばかりでなく、シャッターのタイミングまで、みなの間でうまく共有させてしまうところである。

 ところが、福が転じて禍をなすというか、日本にあっては、子音に一つ一つ母音が必要なせいで、これは「ウ」の顔を皆でそろえる方法になってしまっている。

 ア・イ・ウ・エ・オでいえば、シャッターの際に一番よしたいのは「ア」で(「バター」は絶対だめだ)、その次が「ウ」か「オ」というところではないだろうか。

 我が国独特の言語文化が、今日も日本全国で、ひょっとこ顔の写真を作り出しているとは!

 もちろん、多くの人は、カメラマンが言うとおりわざわざ「チーズ」なんて口を動かさず、あれをタイミング合わせにしか使っていないだろう。

 しかし、ちゃんと声を合わせている人もいる。

 私は、以上のことがあってからどうもそこへ目が行くようになったのだが、いわゆる集合写真を見ていると、明らかに「チーズ」をやっているなとわかる写真がある。ところどころ、口が「ウ」をしている。さすがに、口をとがらすまでは行っていないが――。言われるまま素直に声を出す子供なんか特にそうだ。

 「正直者が馬鹿を見る」の言ではないけれど、言われて素直にやる者ほど変な顔に写りこむ、この舶来の習慣ばかりは、少しずつ廃れさせていけないものだろうか。
 今やもう笑えない、「バター」のギャグといっしょに……。

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