昇り竜の顔の実写映像
(2015/10/4)
「昇り竜」なる存在が、いったいどのような顔をしているのか見てみたい方は、下記をお読みいただきたい。
落語の世界には「噺のマクラ」(本題に入る前のおしゃべり)というのがあるが、ここでは落語そのものを、噺のマクラにすることにする。
三代目柳家小さんという、天才落語家がいた。江戸時代に生まれ、明治大正を通過し、昭和の初めまで生きた人だ。
かの夏目漱石は、三代目小さんと同時代を生きている喜びを、小説「三四郎」のなかで作中人物の口を借りて次のように語っている。
「あんな芸術家は滅多に出るものじゃない。何時でも聞けると思うから安っぽい感じがして、甚だ気の毒だ。
実は彼と時を同じうして生きている我々は大変な仕合わせである。
今から少し前に生れても小さんは聞けない。少し後れても同様だ。」
三代目小さんの落語は、幸い、断片的だが録音がかなり残っている。
彼は上記のように、江戸時代(くわしくいえば、徳川13代将軍・家定の時代)に生まれた人である。しかし、録音を聴くと、しゃべりのテンポ、間合いが、21世紀の落語家とほとんど変わらない――トントントントンとけっこう速い――ことに驚く。
もしノイズを抜いて音声をクリアにできたなら、「平成の落語家です」と言われて聞いても、違和感はないだろう。
漫才など、他のお笑いスタイルだと、100年といわず50年差でも、こんなふうであることは考えられない。もちろん、話のなかみが古典落語だということもあるのだが。
(落語というのは、漫才より、むしろ歌舞伎に近いところがあるのかもしれませんな)
たとえば、「小言幸兵衛」という演目を聴くと、3分くらいの断片でしかないのだが、漱石が「あんな芸術家は滅多に出るものじゃない」と評した片鱗がうかがわれる気がする。
落語と浄瑠璃(常磐津節)を自由に行き来する、こうした文字どおりの「話芸」を聞くなら、「平成の世にこんな存在が、いてたまるかい」ということにもなろう。
卓越したウデというか、ノドを持っている一方で、昭和最高の名人といわれる五代目志ん生のような、とぼけた味も含んでいる。
(むしろ、志ん生のほうに、先人・小さんに似た雰囲気があると言うべきか。二人の生は40年ほど重なっている)
さて、マクラや、クサマクラの偉人や、高座でグウグウ寝てしまった名人の話はここで終えて、本題に入ることにする。
この人が世に現れ、頂点へ登るさまを、つぶさに目撃できたのは幸運なことである――私自身がそう感じる人物が何人かいる。野球のイチローだとか、将棋の羽生善治だとか……。
すでに有る山頂へ登ったというより、過去にない高さの山頂を、自分で作ってそこに立った感じ。頂上がとてつもなく高いと、活躍する期間も実に長いという点も共通している。
イチローについてはこれまで何度か書いた。今回ふれたいのは、羽生善治である。
将棋という、高密度の思考と、マラソン的強さの両方が求められる頭脳バトルは、体力、集中力、記憶力などの面で、40歳を超えると力を維持することが難しい世界である。
しかし、羽生善治は45歳にして、いまなお七大タイトルのうち四つ――名人・王位・王座・棋聖――をもつ第一人者であり続けている(他は一冠保持者が三人。2015/10/4現在)。
彼が「七冠」という空前の偉業を達成してから、ほぼ20年の歳月が経ち、当時生まれた子はそろそろ成人式を迎えようというのに、彼を抜き去る若手が出てこない。
これは、年功序列では全然ないこの世界にあって、かなり異常な状況である。
将棋の駒がいちばん強い状態は「竜」だ。竜に例えるのにいちばんふさわしい棋士は、この人であろう。
私は世代的に、羽生善治が「少年」という言葉で呼ばれていたころから、その活躍を見ることができた。しかし、「自分はこんな貴重な場面を見たんだぞ」という思い出話を、ここに書きたいわけではない。
残念ながら、漱石が三代目小さんを絶賛している文章を読んでも、私たちが追体験できるのは、ノイズに満ちた語りの「かけら」である(これだけでも貴重ではあるが)。
小さんが、高座でどんな表情やしぐさと共に、一つの世界を作り出していたか、知るすべはない。
しかし、羽生善治の場合、この「竜」がとてつもない勢いで天へ登ったときの空気を、そのままパックしたような映像があるのだ。
この映像、たった一つだけでも、あのときの彼の雰囲気や、彼の出現に「おいおい」となっている周囲の様子はかなり伝わると、当時を知る者として思うほどである。
これを読んでいる方は、当然ネットを利用されていると思うが、上記の映像は、たとえばYouTubeですぐに見ることができる。しかも、短い。
肝心のシーンは、ほんの数分であり(将棋のことだから、そこに至る経緯もむろんあるけれど)、将棋にさほど興味がない方は、ラストのそこだけでも十分である。
これは羽生の「対局」の映像なのだが、「将棋は駒の動かし方を知っているくらい」という人にも、きっとおもしろい。
将棋をまったく知らない人にさえ、「とてつもない存在が現れ、人々の度肝をぬくことをやった」雰囲気は、見ればまちがいなく伝わるだろう。
それは一つ、解説者によるところが大きいのである。この対局を解説しているのは、後に日本将棋連盟の会長になった米長邦雄である。
この人は将棋が強い上に、たいへん「モテる」人物だったが、その人間的磁力もまた、ついでにここにパックされている感じがする。時間があれば、ラストだけでなく、その前の部分も見る(聞く)ことをおすすめしたい。
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