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 将棋にくわしい方は、もう私がここで何を紹介しようとしているか、とっくにおわかりと思う。これは「伝説の5二銀」と呼ばれている有名な一手である。
 たとえばYouTubeで単に「5二銀」で検索すると、いま10個くらいヒットする。この世界で、もはや「5二銀」は羽生を意味している。

 前にイチローの「ザ・スロー」という、たったひと投げでお客さんや同業プロを仰天させ、その映像がくり返し放送されたプレーのことを書いたが、その将棋版みたいなものである。
 もっとも、将棋にあっては投了ほど不快な行いはないのだから、「ザ・スロー」なんて言葉を並べるのはよろしくないかもしれぬ。
 
 上記の映像は、いきなり見ても十分おもしろい。しかし、「5二銀」が放たれたとき、この「竜」がどんな尋常でない上昇気流に乗っていたか知っていたほうが、いっそうおもしろくなる。
 そこで当時の周辺事情を、少し書きそえることにする。

 この手が指されたのは、第38回NHK杯(1988)の対局。羽生善治は当時、まだ18歳。
 このトーナメント戦で、彼は、現役の四人の名人経験者、すなわち大山康晴、加藤一二三、谷川浩司、中原誠を、続けざまに破って優勝するという「事件」を起こしたのであった。

 大山、中原、谷川という顔ぶれは、いずれも自分の時代を築いた、近代将棋史「頂点の系譜」といえる。加藤一二三もまた、18歳の若さでA級八段までかけ登って、「神武以来の(つまり、日本はじまって以来の)天才」と評された棋士である。

 その全員に勝ったこともすごいが、この四人と、そもそも順番に当たる状況が起きたこと自体に、神様まで巻き込んでいるような空気を感じたものである。

 上記の「5二銀」は、新旧の神童対決、加藤一二三との対局でとび出した一手だ。この手で弾みをつけるようにして、さらに谷川、中原という当時の将棋界ツートップを破り、五段のティーンエージャーが優勝カップを手にしてしまったのであった。

 この優勝から一年も経たぬうち、羽生は早くも、将棋の七大タイトルの一つで、名人と並ぶ最高タイトルとされる「竜王」を奪取してしまう。

 上記の映像がとらえているのは、まさしく、異常な角度で急上昇しているさなかの、昇り竜の顔なのである。NHK杯も竜王も、むろん史上最年少だ。  

 しかし、「5二銀」がいかに妙手でも、棋譜しか残らない対局で指された手だったら、これほど有名になりはしなかったろう。
 NHK杯ゆえ、対局が全国ネットで放映されていたことが大きかった。

 加えて、羽生の意図を即座に理解できるとともに弁が立つ、解説の米長邦雄の存在が大きかった。
 米長邦雄はこのしばらくあと、50歳近い年齢で、悲願の名人位へ登る。史上最年長記録だ。その米長をすぐ翌年、名人から引きずり下ろしたのは、やはりというか何というか、この「5二銀」の人物であったが。

 YouTubeに自らの番組がアップされると、鋭敏に察知して消させているように見えるNHKが、たくさんの「5二銀」映像を放置しているのは、ちょっと不思議ではある。これは、この映像がもつ啓蒙的価値を考えての、高度な政治的判断であろうか? それとも単に、この方面の監視が手薄なのか?

 この映像は、旬の天才の姿をとらえた希有な記録であり(このふしぎな人物は、今も旬なのだけれど)、故・米長邦雄の魅力を伝える貴重な記録でもある。

 そして何より、将棋を始めた子供などが見て、「将棋というのはこれほど、見る者を仰天させ、感心させることができる世界なのか」と、目を輝かすような映像である。

 ネットの発達で増えつつある海外の将棋ファンも、この局面で出現する「5二銀」に、将棋というゲーム独特の奥深さを感じとることだろう(ご案内のように、手持ちの駒を絶妙な点へ「張る」というのは、チェスなどには存在しえないタイプの衝撃手なのだ)。

 NHKは、こうした国宝級の記録ばかりは、理外の理(利外の利?)によって、国際動画サイト上の流通をお目こぼししてほしいものである。有料のアーカイブのようなところへ閉じられてしまっては、上記のようなこと一切は起きえないのだから。

 (余談だけれど、NHKの番組が、受信料で作られていることを考えると、アーカイブ(過去番組)の視聴を有料にするというのは、どうなのだろうかと思ってしまう。
 寄付されたお金で建物を建てつつ、その寄付元からまた入館料を取るようなものではあるまいか?)


最後に: 「落ち」の代わりに、上記のビデオの三人の名人・元名人(羽生善治、加藤一二三、米長邦雄)に関係した、もう一つ、とびきりおもしろい映像を、ついでに紹介しておきたい。上の映像に対し、23年後の映像ということになる。

 二人の先輩名人の、だんだん漫才のようになっていくかけあい大盤解説を、40代に入った羽生名人が、ほほえみながら鑑賞している10分間。

https://www.youtube.com/watch?v=74f1Vz-wDZo

 米長邦雄が解説の「聞き手」をつとめるという、珍しい光景がここでは見られる。
 もっともこの聞き手は、しだいに相手の先輩名人を「すごいね、プロみたいだねえ」とほめ(?)たり、「素人」呼ばわりしたり、けっこう失礼になっていくのであるが。

 しかし、そうした言葉がまるで刺さっていないように見え、終始ハイテンションで明るい、加藤・先輩名人もまたすごい。
 この大棋士は、孫くらいの年の若者たちから「ひふみん」という可愛いニックネームで呼ばれていたりするが、その理由も、この映像を見ればただちにわかるだろう。

 むかし「犬猿の仲」と言われた、米長、加藤両氏が、水と油でぜんぜん合わないようで、最高の名コンビにも見えるという、ふしぎな映像である。棋界の名人たちは、時に、寄席の名人のような表情も見せるのだ。
 (米長邦雄は、この映像の年の年末に亡くなった。こうしたやりとりを、もはや聞けないのは残念である)

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