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CG時代をむかえて映える意外な映画
(2013/8)

 CGが映画に初めて本格的に導入されたのは、1982年の「トロン」というSF映画であった。私はこれをわくわくしながら見に行った一人である(要するに、かなりのおっさんだ)。CG映画の歴史も、もう30年を超えたことになる。

 進化を続けるCG世界にはむろん今も魅了されるのだが、同時にこのごろ、それと逆のことも強く感じるようになった。
 すなわち、CG全盛時代になればなるほど、大むかしの映画が、かえって魅力を増してくるということなのである。

 といっても、自分が若いころ見た映画への思い入れなどではなく、これは時代や年齢に関係なく共感される種類のことだと思う。
 実際、このあとふれる映画を私がちゃんと通して見たのは、わりあい最近のことなのだ。

 どんなものすごい映像も、CGが自由自在に作るようになって以来、映画を見ていてあまり湧かなくなった感情の一つに、リアルな「ハラハラ感」がある。

 ビルの屋上の縁や断崖絶壁に、ヒーローやヒロインがかろうじてぶら下がる――映画にはそんな場面がよく出てくるが、そういう映像を見ても、本当に「手に汗握る」ことはまずなくなった。
 みごとな映像だなぁ、なんて感心して見る見方がどこか混じっている。

 もちろん見ているときは、主人公に感情移入しているので、そこでハラハラしないわけではないのだ。
 しかし、「驚くなよ。データ処理でこういう絵づらを作っているだけだ」という理解も、どうしたって頭のなかにあるから、なまなましくゾクッとするようなことはない。

 作品世界によほど没入できる人でないかぎり、そうした感覚を抱くことは、CG全盛時代の映画では難しいのではないか。


 世界三大喜劇王の一人、ハロルド・ロイドに、「Safety Last(ロイドの用心無用)」という、高所恐怖症の人にはとても娯楽にならない、オソロシイ娯楽映画がある。

 「用心無用」という邦題だとわかりにくいが、要するに「安全第一(Safety First)」の正反対の、「安全最軽視」というタイトルである(これはものすごく正確なタイトルだ!)。

 まだ無声映画時代の、1923年(大正12年)の作品だから、90年も前に撮られた映画ということになる。
 著作権はとっくに切れていて、動画投稿サイトによく全編がアップされているので、いまは簡単に見ることができる。

 この映画の見せ場は、ロイドが高層ビルの外壁を、アクションにはまるで向かない背広姿でてっぺんまで登っていく、20分弱のラストシーンである。

 むろん、画像の合成なんてことは行われていない(というか、リアルな合成などしたくてもできない時代の映画だ)。

 後ろに映っている他の高層ビルなどから、彼が今どのくらいの高さを登っているのか、一目瞭然でわかる。
 壁の突起を手でつかんで進んでいくだけで、命綱も、安全ネットもない。

 「落ちたら一巻の終り」状態で登っていることを示すために、屋上からの見おろしショットがときおり挟まる。ロイドはそういう絵のなかで、わざと足をすべらしてみせたりする。

 この人は何せ「喜劇王」であって、ただふつうに登って「どうです、すごいでしょう」という20分間ではないのである。

 登る途中で、たくさんの鳥に襲われて転落しかかったり、上から降ってきたネットを全身にからませつつ、足をすべらせたり(このあたりはほんとにヒヤヒヤする)、窓から突然出てきた長い板で、宙へ大きく押し出されたり――もう、「そこまでやらなくても、喜んでおひねりを置かせていただきます」というシーンの連続なのだ。

 ロイドが無事に撮影を終えたことを、こっちはむろん知っているわけだが、それでも各シーンを何度見ても、ジェットコースターの落下で体感するような、ゾクッとする感触がからだに走ってしまう。

 起きていることをただ記録している映像ゆえの、リアルな迫力である。

 実はこの映画のしばらく前に、ロイドは爆発事故で右手の親指と人差し指を無くしていて、彼は義指をつけてこの映画を撮っている(故・淀川長治が中指と書いていたことがあったが、調べてみるとやはり親指と人差し指のようだ)。

 そんな状態で、右手をかばっている気配を出さない登り方で、時々わざと落ちかけつつ屋上まで登っていくのだ。

 この撮影のどこかでロイドが人生を終えていた可能性は、少なからずあったろう。
 映画の内容でなく、撮影作業じたいが、真にSafety Lastなのである。

 コメディからこんなタイプの感情を抱くのは非常に奇妙なことだが、同じ人間が次々にこういう命知らずのことをやる場面をながめていると、自分がふだんの生活で出くわす困難が、前より軽いものに見えてきたりする。すぐさま命まで取られるようなものは、あまり無いから――。

 上の映画はたいへん極端な例だが、しかし一切が「リアル」な撮影であったころの、カーチェイスの衝突・炎上シーンなんかも、やはりそれに通じるひりひりしたスリル感を帯びている。

 十分に準備して撮っているとはいえ、それらは作り事というより、一種のドキュメンタリー記録なのだ。

 こうした遺産が、画面を通じて問答無用で伝えてくるひりひり感は、映画の「CGあたりまえ化」が進むほど、かえって独自の輝きを増すだろう。

 死や大ケガと隣り合わせのスタントという行為が消えるのは、それはそれで良いことだとも思いつつ――。

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