CGからは受けとれない、実写映像の別の魅力の一つは、個々の「物」がそなえている、現実物体ならではのヴィヴィッドな表情の魅力とでもいったものだ。
むろん、CGの進歩がいずれ克服していく部分はあるだろう。
しかしここには、人のイマジネーションどおり自由に映像が作れれば、はたしていちばん魅力ある産物が出てくるのだろうかという、おもしろい問題がひそんでいる気がする。
「大魔神」という、かつて大ヒットした日本映画がある。
映画でこの神様の顔を見たことがなくても、横浜ベイスターズやMLBで活躍した佐々木主浩投手のおかげで、「こういう感じの外観なのかな」というイメージは、かなり若い人まで持っているにちがいない。
ラストに至ってこの人がノッシノッシ登場したら、相手はもはや手も足も出ず死屍累々――そうした意味でも、佐々木投手=大魔神というのは実に的確なニックネームであった。
ベイスターズと戦うときは、攻撃できる機会は8回までしかないという、当時の長嶋監督の嘆きを思い出す(思えばあのとき目にしていたのは、「巨人対大魔神」というたいへんなマッチアップだったのだ)。
佐々木投手はメジャーリーグでもそのままDAIMAJINと呼ばれた。それは全部で3作作られた「大魔神」が、かつてアメリカでもかなり人気を博したことを反映している。
これらの映画を見返す機会があったのだが、むかしの日本の特撮になじみがある人より、むしろまるで接したことのない人のほうが、この映像はかえっていろいろおもしろいのではないかと思った。
半世紀近くも前の特撮だから、映像にツッコミどころは多々あろうが、独特の「ズシリ感」みたいなものをたたえた画面(そして伊福部昭がつけた迫力満点の音楽!)に、新鮮な刺激も大きいにちがいない。
ご存じない方のためにちょっとだけ書くと、この映画の舞台は戦国の世である。
恐ろしい魔神を地に封じこめるため、ハニワ人形のような柔和な顔の巨大な石像が、岩場に築かれている。
当地でさんざん悪さをした、他国の武将や裏切り者などが、この像を馬鹿にし、ヒタイに大きな杭を打ちこんだりして、壊しにかかる。
こうした悪行や暴挙に、ついには石の像が動きはじめ、顔の前でウデを横切らす(というか、縦切らす)やいなや、がらりと顔を変えて魔神化するのだ。
これが暗緑色の、たいそうこわい顔なのだが、魔神の着ぐるみに入って、眼だけ外部に見せている橋本力(元プロ野球選手で、いわば佐々木投手の先輩なのがちょっとおもしろい)が、映画へ転じても変わらぬプロ意識というか、粉じん飛びかう撮影状況のなか一切まばたきをせず、そのせいで眼が異様に血走っていて、何とも不気味な迫力を生んでいるのである。
映画の作りは、怪獣映画のような子供向けではまるでない。むしろ小さい子が見たら、おもしろいよりは、トラウマになるような映像だ。
「日本着ぐるみ界」というものがあって、仮に南端でゆるキャラたちが陽気に騒いでいるとすれば、北端に恐い顔で座っているのが大魔神であろう。
最新のCGに対し、劣っている点に注目するようにこの映画を見れば、この魔神にはそのような着ぐるみ感があるし、ミニチュアっぽさが出ている場面も少なくない。
しかし、それを補って余りあるのが、実際の物体がそこでズシズシと動き、飛散し、壊れ、実際の火がそのわきで燃え、水が流れ――そうした、現実の物々の交錯ならではの迫力、おもしろみである。
こうした特撮では、結果としてどんな絵が撮れるかを計算しつくすことなどできない。
血走った眼がかもし出す不気味さなどその典型であろうが、本質的に、実際に撮ってみて、「こんな絵が撮れたぞぉ」というものなのだ。試行錯誤のなかで思いもよらぬ獲物に出くわすことが、少なからずあったろう。
人間の案外せまく閉じているイマジネーションのワクを、産物は荒ぶる魔神のごとく超え出る。そうした「おい、こんなのが撮れちゃったョ」特有の魅力も、この映画にはあふれていると思う。
最新のCG映画を見慣れた眼にこそ、むしろ際立つような魅力である。
オンデマンド視聴の普及などで、昔の映画を見ることがますます簡単になりつつあるので、この映画も、「ダイマジン? 何それ?」という世代にぜひふれてもらいたいものだ。
特撮シーンのすごさという点では、第2作の「大魔神怒る」がひときわ抜けている(2作目のつらさで、お話のほうはかなり添えもの感が強いけれど)。
クライマックスの、湖面が割れて魔神が出現するシーンなどには、50年近く前の特撮とは思えぬ壮大さと美しさがあり、映画館といわずとも大きめのディスプレイで見たなら、当時の日本映画のポテンシャルの高さに驚くことだろう。
DAIMAJINというニックネームが、21世紀のアメリカでまで通用する状況になってしまったのには、元の映像にそれなりの原因があるのである。
私は大魔神が、彼にとってはまさにミニチュア存在であろう人や建物を蹴散らしている様子を見ると、どうもひょっこり、宇宙探査機「はやぶさ」が頭をよぎったりするのだ。
つまり、巨大な存在が暴れるおもしろい映画を作ろうと考えたって、アメリカのように巨額の予算が投じられるわけではない。
そのハンディを、ていねいで緻密な物づくりや、さまざまな創意工夫で補って、結果として国外からも感心されるものを産んでしまう。そうした「民族の血」が、そこに共通して流れている気がするのである。
大げさにいえば、「大魔神」は、「われわれは何者なのか」をよく教えてくれる映画なのだ。
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