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悪化する耳鳴り

(とある医院の診察室。初診の患者が入ってきて医者の前にすわる)

医者 ええと、今日来られたのは……。(問診票を見る) 耳鳴りということですね。
患者 ええ。耳鳴りなんですけど、ほかの人の耳鳴りとは、どうも様子がまるで違うようなんです。
医者 と言いますと?
患者 耳でいつも鳴っている音が、下手くそな浪曲なんですよ。
医者 ろうきょくぅ?
 三味線の伴奏でやる、あの浪曲ですか?
患者 ええ。
 聞こえるのは、いつも同じおっさんの声なんですが――。それがひどいダミ声で、しかも何とも下手くそなんです。
医者 おっさんのダミ声の浪曲が鳴ってるねえ……。そりゃ聞いたこともない耳鳴りだなあ。
患者 むろん私だけに聞こえるんです。
医者 あ、それはわかりますが――。
 ずっと、そんな音が耳で鳴っているとすれば、一番考えうる原因としてお尋ねしますが、だれかが実際に、いつもあなたに寄りそうようにして、浪曲をうなっているってことはないんですか?
患者 そんな奴が横にいれば、やめやがれと言って、とっくに蹴とばしてますよ。
 野原の真んなかに一人で立ってても鳴りますし、こうして先生とお話ししている今も鳴ってるんです。
 あんまりいつも聞いてるんで詳しくなっちゃったんですけど、いまおっさんがうなってるのは「八百屋お七」という悲恋ものです。これはもう、百回以上聞いているかなあ。
 朝、通勤電車のドアに必死で駆け込むようなときも、耳にはずっと、間の抜けた声の浪曲が聞こえてるんですよ。
医者 そりゃあ、えらく変わった症状だな。
 あなたが浪曲好きのあまり、以前どこかで聞いた浪曲を、心のなかですごくリアルに再現してるってことはないですか?
患者 好きも嫌いも、浪曲なんて、耳鳴りが始まるまで1回だってちゃんと聞いたことはなかったですよ。いまでは何より嫌いですけども。
医者 ふうむ、八百屋なんとかというのが、いまは聞こえているとおっしゃったが、聞こえる話にいくつか種類があるということですか?
患者 そうですねえ、全部で五、六十種類はあるんじゃないかなあ。
 悲恋ものと、お家騒動の話が、特におっさんのオハコみたいなんですよ。
 あと、「じゃがたらお春」という望郷ものも、何百回聞いたかしれません。
医者 とても耳鳴りとは思えんな。
 実際にある話がそんなふうにリアルに聞こえるんじゃ、精神の疾患でもなさそうだし――。
 まさかとは思いますけど、知らないうちに宇宙人があなたを誘拐して、頭にスピーカーでも埋め込んだのかもしれませんなあ。
患者 宇宙人なら、たしかに人間にスピーカーくらい埋め込めるかもしれませんが、でも、そこにずっと浪曲は流さないと思うんですよ。
医者 そりゃそうだ。たぶんもっと別のことするな……。
 浪曲が耳で鳴ってるねえ――。聴診器を当てたら、もしかして、かすかにでも聞こえないだろうか。
 ちょっと失礼しますよ。

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