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ご隠居、ひと夏の体験(前編)

(梅雨が終わったとたん、早くも太陽が激しく怒りまくっている7月。八つぁんがご隠居の家にやってくる)

八つぁん ご隠居、ごめんください。ちょっくら、町会の打ち合わせにきました。
ご隠居 お、八つぁんか。上がりなさい。
(台所へ) お~い、暑いなか八つぁんが来たぞ。冷たい砂糖水を出してあげなさい。
 (いつの時代だそんなの喜ぶのは?)
(台所へ)お気を使わずに。何もいりませんからねえ!
 そういえば、長いことこちらにお邪魔してませんでしたね。お元気ですか?
 まあ、急に暑くなったが、何とか――。
 実は、このまええらいことがあってな。
 えらいこと?
 ああ。この年になって初めて、競馬というものをやったんじゃ。そっちの方がめっぽう好きな男に、駅前でばったり会って、誘われて。
 へえ。
 それで、電車にのって競馬場へ行って、その男に教わりながら馬券を買ったんじゃが。
 何せ初めてだから、買う額は最低の百円にしようと思ったものの……。
 ものの?
 馬券のマアクシイトに、老眼鏡を出して線を引いてたら、これはもしかしたら悪魔のささやきだったのかもしれんが、心のなかに突然「ビギナーズラックは最初だけ。最初こっきり、あとは無し」という言葉が響いてな。
 言葉の意味からして、それはそうかもしれませんが……。
 最初のとき限定の幸運だというのに、そこで百円しか賭けないというのは、あまりに愚かではないだろうか?
 別に愚かじゃありませんよ!
 実は、銀行でたまたま生活費を下ろしたあとで、そのときふところに10万ほど現金があったんじゃ。
 そういう時は、賭け事をしに行かないほうが無難ですがねえ。
 それで少し気が大きくなっていたせいもあって、掛け金を百円から一気に千円に上げようとしたら――
 したら?
 「幸運の女神には、前髪しかない」という、有名な格言が頭をよぎってな。
 (あぶねえ言葉ばっかりだなあ)
 お、八つぁんはコレ知らんか? 人の運を決める仕事は気苦労が多くて、女の神様でも後頭部脱毛症になってしまうという意味じゃ。
 そういう意味じゃありませんよ。(そんな内容が格言になるかい!)
 それほどの苦労で運を与えてくださる女神様に、わしも応えなければならん。通り過ぎたチャンスは取り返しがつかん。
 そんな気持ちで、ふところの10万円を、そのレースに全部つっこんでしもうた。単勝、一点買いで。
 …………。
 いまから言っても、どうにもならないですから、何も言いません。(その、知り合いの誰か、止めなかったのかよ)
 10万円は確かに大金じゃが、山も崩せばチリとなる。若いころから毎週、こつこつ負け続けたというふうに想像してみなさい。
 仮に毎週100円負けたとして、1年・52週で5千円ちょっと。20年負け続ければ10万円。週に、缶コーヒー1本以下の金額……さほどの負担じゃないじゃろ?
 ……。(JRAにとって、最高のお客さんだあ!)
 それで10万円を単勝で、どんな馬に賭けたんですか?
 知り合いが、そのレースにはテッパンの勝ち馬がいますよと教えてくれてな。手堅く、それにしようかと思ったけども……最初こっきりの幸運を、倍率1倍ちょいの馬に賭けて勝ったのでは、これほど運のムダ使いはない。
 それで思いきって、逆にオッズがいちばん高い馬を買うことにした。
 「ノンビリイコー」という名で、たしか倍率200倍くらいだったな。
 ……(コノゴインキョ、アタマオカシ)
 何でも、伝説の名馬ハイセイコーの遠縁にあたる馬だと聞いたが……。
 200なんてオッズが付くようじゃ、水よりも薄い血のつながりでしょう。
 それでレースはどうなったんですか?
 ああ、レースが始まると、わしが賭けた「ノンビリイコー」の動きは、他の馬とちがって非常にわかりやすかった。一頭だけ、あたかも、政治家が国会で牛歩戦術をしているような進み方でな。
 むしろ、動きそのものは、わかりにくかったと言うべきかもしれん。
 ……。
 馬にしては顔がミョーに短かったから、あいつ、たぶん前世は牛だな。優れた血筋も前世の影響には勝てん。
 大金賭けた馬がビリなのに、悠長にそんなこと考えてる場合じゃないでしょ!
 ところが、何ともイサギよいわしの賭けっぷりや、女神様の後頭部を心配する気持ちに、幸運の女神がホの字になったんじゃろ。
 レース終盤に、他の馬がみんなずっこけたり、騎手に逆らって逆走を始めたりして、ノンビリイコーが勝ってしまったんじゃ。
 オッズ200だった馬に、単勝10万つっこんで勝ったんですか……。(とんでもないじいさんだ)
 ああ、いっしょに行った男も腰を抜かしとったよ。
 これだから、恐いもの知らずの初心者は恐いと言うんじゃ。はっはっは。
 (自分で言うな)
 それで、あとのレースはどうしたんです?
 勝っている時に、自己をきびしく律してやめるのが賭け事の極意じゃ。最初にこれほど勝っちゃったら、あとはロクなことないじゃろ。
 競馬はたぶん、もう一生やらん。
 (JRAにとって最低の客だあ……)

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