ご隠居、ひと夏の体験(前編)
(梅雨が終わったとたん、早くも太陽が激しく怒りまくっている7月。八つぁんがご隠居の家にやってくる)
八つぁん ご隠居、ごめんください。ちょっくら、町会の打ち合わせにきました。
ご隠居 お、八つぁんか。上がりなさい。
(台所へ) お~い、暑いなか八つぁんが来たぞ。冷たい砂糖水を出してあげなさい。
八 (いつの時代だそんなの喜ぶのは?)
(台所へ)お気を使わずに。何もいりませんからねえ!
そういえば、長いことこちらにお邪魔してませんでしたね。お元気ですか?
ご まあ、急に暑くなったが、何とか――。
実は、このまええらいことがあってな。
八 えらいこと?
ご ああ。この年になって初めて、競馬というものをやったんじゃ。そっちの方がめっぽう好きな男に、駅前でばったり会って、誘われて。
八 へえ。
ご それで、電車にのって競馬場へ行って、その男に教わりながら馬券を買ったんじゃが。
何せ初めてだから、買う額は最低の百円にしようと思ったものの……。
八 ものの?
ご 馬券のマアクシイトに、老眼鏡を出して線を引いてたら、これはもしかしたら悪魔のささやきだったのかもしれんが、心のなかに突然「ビギナーズラックは最初だけ。最初こっきり、あとは無し」という言葉が響いてな。
八 言葉の意味からして、それはそうかもしれませんが……。
ご 最初のとき限定の幸運だというのに、そこで百円しか賭けないというのは、あまりに愚かではないだろうか?
八 別に愚かじゃありませんよ!
ご 実は、銀行でたまたま生活費を下ろしたあとで、そのときふところに10万ほど現金があったんじゃ。
八 そういう時は、賭け事をしに行かないほうが無難ですがねえ。
ご それで少し気が大きくなっていたせいもあって、掛け金を百円から一気に千円に上げようとしたら――
八 したら?
ご 「幸運の女神には、前髪しかない」という、有名な格言が頭をよぎってな。
八 (あぶねえ言葉ばっかりだなあ)
ご お、八つぁんはコレ知らんか? 人の運を決める仕事は気苦労が多くて、女の神様でも後頭部脱毛症になってしまうという意味じゃ。
八 そういう意味じゃありませんよ。(そんな内容が格言になるかい!)
ご それほどの苦労で運を与えてくださる女神様に、わしも応えなければならん。通り過ぎたチャンスは取り返しがつかん。
そんな気持ちで、ふところの10万円を、そのレースに全部つっこんでしもうた。単勝、一点買いで。
八 …………。
いまから言っても、どうにもならないですから、何も言いません。(その、知り合いの誰か、止めなかったのかよ)
ご 10万円は確かに大金じゃが、山も崩せばチリとなる。若いころから毎週、こつこつ負け続けたというふうに想像してみなさい。
仮に毎週100円負けたとして、1年・52週で5千円ちょっと。20年負け続ければ10万円。週に、缶コーヒー1本以下の金額……さほどの負担じゃないじゃろ?
八 ……。(JRAにとって、最高のお客さんだあ!)
それで10万円を単勝で、どんな馬に賭けたんですか?
ご 知り合いが、そのレースにはテッパンの勝ち馬がいますよと教えてくれてな。手堅く、それにしようかと思ったけども……最初こっきりの幸運を、倍率1倍ちょいの馬に賭けて勝ったのでは、これほど運のムダ使いはない。
それで思いきって、逆にオッズがいちばん高い馬を買うことにした。
「ノンビリイコー」という名で、たしか倍率200倍くらいだったな。
八 ……(コノゴインキョ、アタマオカシ)
ご 何でも、伝説の名馬ハイセイコーの遠縁にあたる馬だと聞いたが……。
八 200なんてオッズが付くようじゃ、水よりも薄い血のつながりでしょう。
それでレースはどうなったんですか?
ご ああ、レースが始まると、わしが賭けた「ノンビリイコー」の動きは、他の馬とちがって非常にわかりやすかった。一頭だけ、あたかも、政治家が国会で牛歩戦術をしているような進み方でな。
むしろ、動きそのものは、わかりにくかったと言うべきかもしれん。
八 ……。
ご 馬にしては顔がミョーに短かったから、あいつ、たぶん前世は牛だな。優れた血筋も前世の影響には勝てん。
八 大金賭けた馬がビリなのに、悠長にそんなこと考えてる場合じゃないでしょ!
ご ところが、何ともイサギよいわしの賭けっぷりや、女神様の後頭部を心配する気持ちに、幸運の女神がホの字になったんじゃろ。
レース終盤に、他の馬がみんなずっこけたり、騎手に逆らって逆走を始めたりして、ノンビリイコーが勝ってしまったんじゃ。
八 オッズ200だった馬に、単勝10万つっこんで勝ったんですか……。(とんでもないじいさんだ)
ご ああ、いっしょに行った男も腰を抜かしとったよ。
これだから、恐いもの知らずの初心者は恐いと言うんじゃ。はっはっは。
八 (自分で言うな)
それで、あとのレースはどうしたんです?
ご 勝っている時に、自己をきびしく律してやめるのが賭け事の極意じゃ。最初にこれほど勝っちゃったら、あとはロクなことないじゃろ。
競馬はたぶん、もう一生やらん。
八 (JRAにとって最低の客だあ……)
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