昔、駅に人を押す男たちがいたころ
(2020/8/13)
かつて、東京の混雑駅のホームには、通勤ラッシュ時に「押し屋」「剥がし屋」と呼ばれる人々がおおぜいいた。
いまは諸状況の変化により、消えつつある。或る時代の生き証人(押され証人)として、その思い出を書くことにしたい。
満員の電車のなかへお客を押しこむ人が「押し屋」であり、押しても入れそうにない人を引き剥がし、ドアを閉められるようにするのが「剥がし屋」だ。むろん、同じ人の2種類の仕事がこう呼ばれている。
「押し」と「剥がし」は、一見、ただ方向のちがいに思える。しかし、実際は「剥がし」のほうが、よりたいへんな仕事だ。
電車に何とか乗りたいお客からすると、「押し屋」というのは、自分を助けてくれる尊い援助者である。そこでは、押す側と押される側の思惑が一致している。
少し乱暴にプッシュされても、首尾よく乗れた人は基本的に、電車のなかで感謝している。万万一、押し屋の押しかたに怒る身勝手な人がいたとしても、その人はもう電車とともにどこかへ行ってしまう。
ところが「剥がす」場合には、乗りたいお客と、やめさせる側で、意図することがまったく反対だ。
剥がし屋は、お客を助けるというより、電車運行を助ける人であって(押し屋も実はそうなのだが、お客は自分が助けられた思いがする)、むしろお客の力・意志と、じかにバトルする感じである。腕力と、言葉(これは押す場合にはない要素)、両方を駆使して。
剥がされた人は、ぜひとも乗りたかった電車に結局乗れなかったこと、押してくれると期待した人に、逆に剥がされたこと、周囲の客に「ムリなことをして電車を遅らせたやつ」みたいに映ることなどで、多かれ少なかれプンプンしている。
そういう人が、電車とともに行ってしまわず、空いたホームにポッと残るのだ。
てれ隠しかもしれないが、「押せば入れたよ! 中のほうはけっこう余裕あるんだから」と剥がし屋に文句を言っている人を見たこともある。
満員電車で日々通い、乗り方に慣れている客は、発車直前の、ドアからの人のはみ出方を見て、「このくらいなら、がんばれば何とか入れそうだな」といった「読み」をパッと働かす。
その読みには、「自力だけではムリかもしれないが、背中を押してもらえれば何とか」という見込みも入っている。
結局、剥がされてしまったお客も、そうした期待ぶくみで、かなり無理のある最後尾に付いたにちがいないのだ。何とか乗ろうとグイグイする、その背中が、じつは無言で「押し屋コール」をしている。
ところが、いよいよ「援軍が後ろから近づいてきたぞ」と思ったら、体が逆に……。
私自身は、押してもらったことはあるが、「剥がされる」ところまで行ったことはない。もっと早く、あきらめてしまう。
それは、「剥がされたあと、ホームに残ってどんな顔をするか」という点について、もうひとつ度胸がないせいだったかもしれない。
(ちなみに、剥がされた人は、何となくゆっくり、横へ移動してそこにいなくなってしまうことが多かった)
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