ご隠居のマイブーム
（八つぁんが横町を歩いていると、ご隠居が向こうからやってくる）
八つぁん おや、ご隠居、こんにちは。お出かけですか。
ご隠居 駅前に新しくできたスーパーまで、ちょっくら買いものに行ってきたんじゃ。思ったより、広くて品数があってのう。その中心は40ヘクトパスカル。
八 ？？？
何ですか突然、ヘクトパスカルって。
ご いやあ――。日課みたいに、テレビで毎朝、天気予報を見ているうち、あのヘクトパスカルという言葉に、妙にハマってしまってなあ。
何だかよくわからんけど、すごく味わいがある言葉の響きじゃろ？ むしょうに言いたくてならんのじゃ。
八 へんなものにハマりましたねえ。
ご あのヘクトパスカルという言葉には、もしかすると、なにか悪い麻薬成分が含まれてるんじゃないのか？
八 そんなもんが含まれてたら、テレビ局はそろってお縄ですよ。
ご 八つぁんは天気予報見てて、あれ、すごく言いたくならんか？
八 ぜんぜんなりません。
ご 油断してると、花粉症みたいに、ある日急にくるぞヘクトパスカルが。
八 くるかなあ。そんなふうになった人、ご隠居しか聞いたことありませんよ。
ご そうか、人生経験がいるのかな？
ヘクトパスカルという言葉を言う機会を、ただ気象予報士だけのものにしとくのは、実に惜しいことじゃ。それというのも中心は60ヘクトパスカル。
八 ……わけわからんなあ。
ご 昔の天気予報じゃ、代わりにミリバールと言っておったが――。
ミリバールなんて言葉、くちびるの動きが貧相で、山あり谷ありのメリハリ感がまったく無いじゃないか。
あんなの毎朝、天気予報で連呼されたって、誰の心がときめくんじゃ？
八 予報は、人をときめかすためのもんじゃないですよ。
ご そこへいくと、ヘクトパスカルはあれより10倍くらいいいよ。ちょっと言いにくくて、まちがえそうになるところがいいんだ。
よかったなあ、天気予報界のえらい人が、ミリバールをヘクトパスカルに変えてくれて。
八つぁんも、続けて５回くらい言ってみなさいヘクトパスカル。８回でもいいぞ。
八 私はけっこうですよ。
ご これは部屋で一人でぶつぶつ言ってもだめで、誰かに向かって言わないと気持ちよくないんじゃ。
せっかくこんないい言葉があるんだから、物の値段なんかも、円でなくヘクトパスカルで言うようにすればいいのに。
八 圧力も値段もヘクトパスカルにしちゃったら、聞く人がワケわかんないでしょ！
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