店主のお願い
(かなり売り場の大きなコンビニ。深夜、店主とアルバイトの青年がレジに入っている。入口から若い男が入ってくる)
男 すいません、何も買わない者なんですけど、トイレ貸してもらえますか?
店主 トイレ? ああ、もちろんいいですよ。お買い物はまたの機会で。
ええと、トイレはあの角の奥のほうにあるんですが、案内しましょう。
(二人で奥へ歩いていく。レジに残ったアルバイトが、自分の足元のほうへ目をやる)
店主 ここです。
男 わざわざ、どうもすいません。
店主 それで、と。お客さん、実は一つだけお願いがありまして――。
男 お願い? 何でしょう。
店主 トイレの扉はこれですけど、右に、もう一つ扉がありますね。
男 ええ、こっちはずいぶん古びた扉ですね。
店主 この扉だけは、何があっても、どんなことがあっても、けっして、絶対に開けないでくれませんか。
男 あ、はあ。
店主 この扉は、まずいことに今カギが壊れてまして、押せば簡単に開いてしまうんです。
おしっこを何回してもらってもかまいませんし――
男 そんなに出ませんよ。
店主 トイレットペーパーを何十メートル使ってもかまいませんし、手洗いの蛇口をうっかり締め忘れたっていいんですが、この扉だけは、この扉だけはけっして開け――(レジをちらりと見る) あ、レジが混んできたみたいだ。私はもう行かないと。
男 十分にわかりましたよ。扉は、絶対に開けませんから安心してください。
でも、中にはいったい何があるんですか?
店主 そっ、それだけは口が裂けても、私からは――(と言いながら、うつむいて小走りに去っていく)
男 うーん、中には何があるんだろう。
あそこまでしつこくいわれると気になるよなあ。
…………
まあ、めんどうなことになっても困るからやめとこ。急いでるんだし。
(レジで、客の応対をする店主。レジ内の足元に、トイレの扉近辺をモニターするテレビが置かれている。店主とアルバイトは、客の相手をしつつそれをちらちら見ている。
トイレから出た男が、レジの前を通り、店主に会釈して店を出て行く。
客がふたたび途絶える)
店主 あのお客さんも、扉に手を触れもしなかったなあ。
バイト ええ、まったく近づきませんでしたねえ。
店主 このごろの若い人は、あまり好奇心が無くなっているということはないんだろか。わしだったら、あんな言い方されたら、帰りぎわと言わず、もらしそうでもトイレに入る前に絶対開けてるんだが。
バイト (小さく笑う) あの中にはいったい、何があるんですか?
店主 えっ、1年以上バイトしてる君まで、まだ1度もあそこを開けたことがないのか?
バイト だって面接のとき、店長があんなに絶対開けるなって言ったじゃないですか。開けたら、即クビになるかと。
店主 そうかあ。もしかしたら日本人も、だんだん変わってきてるのかもしれんなあ。海外へ出たがる人も、このごろ減ってきているというし――。
バイト 海外と扉に何の関係があるんですか。
店主 やっぱり、自分が知らない世界があれば、見たくてたまらないという気持ちだよ! そういう好奇心が、むかしの人は強かったんだ。
人々がそんなだったから、鶴だって家から飛んでっちゃったんだし。
バイト ……。
店主 今度トイレ行くとき、君、あそこ開けちゃいなよ。せっかくずっと働いてるんだから。
バイト えっ、いいんですか?」
店主 もう、1年もここに勤めてるんだから、十分にいいよ。
開けるときは言ってね。見てるから。
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